■ゼンマイ取り
小学校にあがったばかりの4月、父親とゼンマイを取りに野に出かけた。夢のようになってしまった記憶だ。その年の初め、ぼくたち家族は岩手から静岡に移り住んでいた。
岩手の山間から移り住んだ静岡はとても暖かだった。シュロの木が奇妙に見えた。南国のように感じた。
もちろん友達はいなかった。それに家は貧しく、苦しかった。
見知らぬ町は、幼いぼくに影を落とす。風景はピントがずれ、夢のようにぼけて、記憶される。
ゼンマイ取りは後先にそれが一度だけだった。どうして行くことになったのだろう。
父親はまだ定職が見つからなかったはずだ。短腹な母にいたたまれず、ぼくを連れて家を出たのだろうか。
父親のこぐ自転車の後ろに乗った気がする。歩いて行ったのかもしれない。
取ったゼンマイを入れるため、父親はセメント袋のようなものを持った。
住宅地の後ろに、すぐ田んぼが広がる。田んぼの真ん中、一本道を歩いていくと、船越に着いた。
船越という名は、ぼくにとってはちょっと異国の「フナコシ」だった。
農家、小高い丘…。
どこかの野原でおにぎりを食べた気がする。
袋がだいぶ膨らんで、帰り道、日中なのにどんどん暗くなる。映画のシーンが変化して暗くなるように。
父親も、山も田んぼも、砂利道も見えにくくなり、遠ざかる。クラクラしてくる。
1958年4月19日、日食だった。
■世界の裂け目と狂気
誰もが、切れ目のような時間や場所を、記憶にもっていると思う。
橋、辻、土手、堤防、船着場、地下鉄の入り口、野積みされた箱、人のいない港湾、止まったクレーン、夕暮れ時の森、囲炉裏火に揺れる影、明け方に鳴く鳥…。
1958年。ぼくにとっては、「フナコシ」と日食だった。
空間と時間が、一瞬立ち止まり、切れて、裂け目が見える。そんな視界。
不安定だが、この世界の深さを、一瞬、気づかせる。
「私はいつも狂気をかけ離れた別世界と見なすことを拒否してきた――別世界と見なすのは、狂気に目をつぶる最良のやり方なのである。…狂気はつねに現実を明らかにする意味がこもっており…あらゆる現実には弱い地帯があって、その表層は薄く、ないに等しい。奥底から何かが忍びより、この表層に達し、いまにも噴出しそうな構えだ」(『狂っているのは誰か』.新評論.p43-44)
現実は薄皮をはさみつつ、非現実とつながる。その往来する回路に、狂気は深く関与する。
『狂っているのは誰か』の著者、トニー・レネとダニエル・カルランは、フランス・ミッテラン政権のシンクタンクだった。精神科医のレネは厚生行政、映像作家のカルランはメディア行政の委員である。
■1983年
この本が訳された1983年。マーガレット・サッチャー、ロナルド・レーガン、中曽根康弘たちの時代だった。
新自由主義による引き締めを予感していたぼくは、この本でいくぶん憂さを晴らした。
世界をどのように見るのか、そこに狂気がはたしてきた役割は、歴史的に大きい。宗教家ばかりでなく、多くの人びとのインスピレーションは、世界の裂け目と狂気を媒介にしてきた。
だから、狂気を、疾病・治療対象・能力という個人に還元してしまう流れをよしとはできなかった。あれから20数年、流れはむしろ強まった。システムが、人間を分断し、個別に、バラバラにしているからだ。
「大切なのは人びとを幸福にすることではなく、人びとが不幸にならないようにすることである。抑圧することなかれ、これである。自分にとって何が幸せか、それは各人が見つけることだ」。そうだと思う。他者への控えめな態度、抑制されたプレゼンテーション。それは狂気を関係のなかに受け入れる人間的な空間を培うはず…。
村上春樹の『1Q84』が読まれている。1983年の翌年、1984年の東京が舞台。そこに、別の世界(1Q84年)を物語るという。
ベストセラーはあまり読んだことのないぼくだが、そんなわけで、この夏、村上春樹を読んでみようと思っている。