なんとなくサンネット日記

2011年3月12日

気前の良さをねたむの?

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 4:38 PM
いろはのいから始めたいろは通り

春近し

ブドウ園をもっている主人がいました。その主人は、ブドウ園の仕事をしてもらおうと思い、日雇い労働者のような人を探しに、朝早く行きました。

その辺に仕事を求めている人がいたので一日1万円で働かないかと誘うと、何人かの労働者がそれに応じて、ブドウ園に働きにきました。

主人はお昼ごろに人を探しに出かけてみると、その日の仕事にあぶれた日雇い労働者がまだ残っていたので、遊んでいるならウチで働かないかと声をかけます。彼らもブドウ園にやってきました。

さらに、もうじき日没という頃にも、まだあぶれている人が多いので、主人は、また誘って自分のブドウ園で働かせました。

日没とともに仕事は終わり、そこで日当を払います。後から来た順に払います。最後にきて1時間くらいしか働いていない人に主人は1万円を渡しました。朝からきて働いた人たちは、ずっと長く働いたのだから、もっとたくさんもらえるかと期待しますが、彼らも1万円ずつしか支払われません。

長時間働いた人は抗議します。俺は一日じゅうずっと働いたのに、最後に少しだけ働いた人と同じ給料では納得できないといったのです。主人はこう答えます。

「初めから日当は1万円と言っただろう。俺はお前に嘘を言っているか?俺は約束通りの金額を支払っているのだから、お前に対して不当なことはしていない。だから文句を言うな。俺はやりたいようにやっているんだ。それとも、お前は俺の気前の良さをねたむのか。」

『「正義」を考える――生きづらさと向き合う社会学』(大澤真幸、NHK出版新書、2011年、p193-194,p260-262)の一文ですが、これは聖書「マタイによる福音書」からの引用です。ぼくはマタイによる福音書は読んだことはありません。しかし、このブドウ園の主人のセリフがたいへん気にいりました。いさぎよいではありませんか!

しかし、大澤さんが引用して、考えたかったことは、失業=奪われたもの(否定されたアイデンティティ)を通じて人と人が連帯する、という可能性についてです。

長時間働いた人は、たくさん働いた自分の努力、遅く来た人より誇ってよい実績、それを主人に訴えました。それは通常、よくあるアイデンティティです。彼らは、遅く来た人と自分たちを比較し、自分たちのよい特徴をアピールしました。

ところが主人はそのようなことにまったく関心がありません。地域社会から役割を奪われ、その日の実績すらない人々と彼らと同等に扱ったのです。社会の既存の価値にとらわれない視野を提示しようとしているのだと思います。

二千年も前に書かれた話が、「個人の選択と自由」の問題を越えようとする時にふたたびよみがえりました。努力や実績は、他人との比較のためにあるのではなく、自分の利益(主人からもらう日当)のためでもないのです。

そう考えると「個人の選択と自由」は、主人に文句を言う人々の論理と似ているのかもしれません。どこかにねたみを含んでいるのかもしれません。気をつけなければ!

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