松尾芭蕉にこのような句があるそうです。
鐘消えて
花の香は撞く
夕べ哉
(『脳のなかの万華鏡』リチャード・サイトウィック&ディビッド・イーグルマン、P247)
この句は有名だそうですが、私は知りませんでした。
日が暮れ、薄暗くなったまち、鐘の音も消えていく。
あらゆるものの形がぼんやりしてきた。
すると、闇のなかから花の香りが私をつく(撞く、突く)。
やがて私も夜に消えていくが、そのあと、香りだけが静かに残る。
共感覚という現象を知る前にこの句と出会っていたら、芭蕉の大胆な修辞として片づけていたかもしれません。
聴覚と視覚が、嗅覚と触感がクロストーク(混線)する世界で暮らす人がいるという現実。共感覚とは、人類が進化する過程で、あるいは子どもの成長プロセスでも生じる、普遍的な現象とつながっているかもしれないという仮定。
このことを下敷きにしてこの句を読むと、たんなる作り物としてどこかの押入れにしまいこむわけにはいかないことに気づくのです。この世界の一部をしっかりとらえた表現、いやいやそれどこではなく世界そのものに違いないと思えてきます。
『脳のなかの万華鏡』のテーマの一つは、人の認識は「知覚→共感覚→メタファー→言語」という連続体である、ということです。これは、わかりにくいですね。私にはたいへん興味深いことですが、うまく説明することは困難です。でもなんとか説明してみます。
知覚(聴覚とか視覚など)はそれぞれが孤立しているのではなく、相互に作用します。相互乗り入れから混じり始めます。すると、知覚は複雑化し、快い音、美しい色、遊んでいるような葉っぱの水滴、笑っているような朝の光…このような世界が広がります。
さらに、言語以前、しかし知覚を超えた領域ではメタファーが生まれます(ここがすごいと思うのです)。この領域は、哲学でいうところの「クオリア」に関係し、人が世界と結ばれるもっとも原初的な舞台でしょう(p28、218-227など)。
しかも、この深い領域に学習(社会的作用)が働いていることを示唆しているのです(p299-304)。
なんということでしょう! 私たちは集合としての人類として、あるいは一人の人間として、言語以前に「メタファーの世界」をもち、かつて、諸感覚と人間関係をクロストークしたというのですから。この領域から、名づけられた物、言葉、世界との結びつきそのものが生まれたというのです。
私たちの意識や精神は、太陽系のはて、冥王星のはるかかなたで生まれ、長い時間をかけて太陽に近づき、激しく光り輝く彗星となんと似ていることだろう! と思うのです。
芭蕉は共感覚者ではないかもしれませんが、彼はこの句を使って、私たちが思いこんでいる精神世界の表面をスッと切り開きました。あるいは、禅師がたたく警策(きょうさく)だったかもしれません。ほら! 気づきなさいよ、と。
彼は、言語→メタファー→共感覚と逆進し、世界の懐に静かに沈んでいくよう、闇の雲の間から私たちをいざなっているのではないでしょうか。