なんとなくサンネット日記

2010年2月18日

井戸の水を汲みすぎる

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 4:42 PM
今日はいい天気

今日はいい天気

■読み聞かせ

 家の書棚に古びた一冊の本のこと。『影との戦い――ゲド戦記Ⅰ』(ル=グウィン作。清水真砂子訳。岩波書店)。4年前、ゲド戦記Ⅲがアニメ映画になり劇場公開されたが、これはⅠ。

 1976年に邦訳が出版。ぼくがもっている本は1985年第13刷。子どもが生まれた年に買ったものなんだと思う。ぼくはこの本を何人かの子どもたちに読んで聞かせたことがある。 

 初めて読み聞かせたのは、お母さんが家を出てしまい、家に残されたひきこもりの少年。ひきこもりという言葉のない時代だった。ソーシャルワーカーとしてアパートを訪ね、10代半ばの彼と会った。ぼくは30代後半だったし、話ははずまない。

 お母さんは彼の暴力を逃れるために家を出たのだが、私から見ればおとなしい少年だった。話に詰まり、ふと寝床の横を見ると、ドラゴンボールの漫画がきれいに並んでいた。「ドラゴンボール、好き?」とたずねる。彼はうなづいた。

 そうか!君がひとりで家にいるのは、ぼくは心配なので、ときどきたずねたいと思うけど、今まで話したこともないぼくと君。話をどうしたらいいかわからないよ。そこで、ドラゴンボールみたいなお話の本をぼくが読むことにしないか。君は、聞いているだけでいい。感想を聞いたり、質問したりしない。ただ聞くだけ。寝てしまってもいい。でも、そうやっていっしょに時間を過ごさないか。そう提案したら、彼は同意した。

 それから、彼と何冊本を読んだことだろう。数冊は読んだ。最初は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』、『モモ』、たぶん『影との戦い』は3冊目だった。

 『影との戦い』の、ゲドとオジオンの出会いのシーンが、ぼくは好きだ。野心に満ちた若者、魔法の力に目覚めたゲド。ゲドの大きな力を知り、制御できる知恵を育てようとする師匠オジオン。オジオンの家に向かう途中、ゲドが口にしたこと、オジオンは諭そうとする。力と知恵のぶつかり合い、それがこの本のモチーフだった。

■ オジオンの言葉

 「魔法が使いたいのだな。」オジオンは大股に歩みを運びながら言った。「だが、そなたは井戸の水を汲みすぎた。待つのだ。生きるということは、じっと辛抱することだ。辛抱に辛抱を重ねて人は初めてものに通じることができる。ところで、ほれ、道端のあの草は何という?」

 「ムギワラギク。」

 「では、あれは?」

 「さあ。」

 「俗にエボシグサと呼んでおるな。」オジオンは立ち止まって、銅をうった杖の先をその小さな雑草の近くにとめた。ゲドは間近にその草を見た。それから乾いたさやをひとつむしり取った。オジオンは口をつぐんで、あとを続けない。ゲドはたまりかねてきいた。

 「この草は何になるだ?」

 「知らん。」

 ゲドはしばらくさやを手にして歩いていたが、やがて、ぽいと投げ捨てた。

 「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな?それを心得て、一目見ただけでも、においをかいだだけでも、種を見ただけでも、すぐにこれがエボシグサかどうかがわかるようにならなくてはいかんぞ。そうなって初めて、その真の名を、その全存在を知ることができるのだからな。用途などより大事なのはそちらのほうよ。そなたのように考えれば、では、つまるところ、そなたは何の役に立つ?このわしは?はてさて、ゴント山は何かの役に立っておるかな?海はどうだ?」オジオンはその先半マイルばかりも、そんな調子で問い続け、ようやく最後にひとこと言った。「聞こうというなら、静かにしていなくては。」

 ■それから

 読み聞かせをしていた彼のもとに、お母さんが戻る。そうしているうちに市営住宅に当選。他の地区に転居して行き、それからはあっていない。

 この本の背表紙を見ると、いまでも、布団に体半分を入れながら静かに聞いていた少年の顔を思い出す。

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