なんとなくサンネット日記

2010年1月14日

個人主義の発展

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 3:07 PM
駒込の青森

駒込の青森

 私たちは個人主義の時代を生きている。

 多様な商品が店舗に並び、あるいはネット上で紹介される。自分にあった新製品、便利で安いもの、あるいは人がうらやむようなサービス、そのようなものを誰もが求める。物・サービスだけではない。自分だけが楽しむ空間、時間の使い方…。

 世界が、選択と個性化の表現で満たされるようになった。でも、何十年も前からそうだったわけではない。1960年代後半から1970年代前半に個人の行動様式が変わったと、指摘する研究者が多い。

 ■ディスカバー・ジャパン 1970

 先日の連休、東京に行った。写真は、JR駒込駅で撮った青森への旅を誘うポスター。駅に貼ってあるJRのポスターは、見る者を、この駅・土地ではない「ここ以外の場所」へと誘う。今回の私の東京行きの目的は、駒込駅近くで行われる会議への参加。だから、駒込駅で降りて、私自身の目的が達成されたのだ。そのとたん、青森行きの観光に誘われてしまったのである。

 JRのポスターは、個人主義が生む「欲望」の象徴そのもののようだ。「ここ以外」への誘惑は、ここにいることの否定の存在をひそかに隠す。仮に、誘われるまま各地をさまよったとしても「ここ以外の場所」には決してたどり着かない。青森に行けば京都のポスター、京都行けば北海道の、北海道には東京の、東京には大分の…笑顔と料理と風景とともに、ポスターが「ここ以外」へいざなう。

 “ディスカバー・ジャパン”“♪遠くに行きたい”と旅にいざなうキャンペーンが始まったのは、1970年の大阪万博が終わった頃だ。大阪万博はグループで行った人が多かった。町内会、会社の職員旅行、農協のツアー…。

 大阪万博の閉幕は、団体旅行(同調を望む他人指向)時代の収束の始まりになり、しかし万博の熱気をテコに少人数の旅行(選択と個性化の個人主義)の増加につながっていった。JRのポスターは、そこに役割をはたしたのだと思う。

 ■嵐 2009

 昨年末、テレビを見ていた。今年の音楽CDのベスト3が嵐(ジャニーズ)の作品だったが、その事実をふまえて、テレビレポーターが若い人たちに「今年はやった曲は」と問いかけた。カラオケで歌っている若い人でさえ、流行り歌が思い出せない。かつては、年間ベスト3を占める歌い手・グループが生まれれば、歌を知っているかどうか以前に、音楽の領域を超えた大きな社会現象になっていたはずである。

 音楽はそれぞれ個人で楽しみ、CDを購入するものであって、一つの歌が社会や時代を象徴することは不可能になったということのようだ。それに驚いた。

 ラジオ深夜便、五木寛之の「わが人生の歌語り」は、月に一回のペースで4年以上続いている。彼は、昭和30年代頃までを指して、たびたび「歌が町に流れていた時代ですね」と言う。私はこのフレーズが好きだ。映画館の休憩時間、商店街の売り出し…確かに彼のいうとおりだった。昭和40年代終わり頃までは喫茶店に有線放送が聞こえ、客はリクエストをし、飲み屋街を流しが歩いていた。流行歌は人々で共有するものだった。

 今の人にとって流行歌は、時代・社会・風景に結びつかず、個々人の身体と思いに結びつくのだろう。そして、だからこそ、私的世界が歌われているのだろう。

 ■個人主義の裏側

 犯罪学者ジョック・ヤングは、1960年後半から強まった個人主義が北米・西欧社会を大きく変化させた、と述べた(『排除型社会』、1999年、邦訳2007年)。私は、日本では1970年ごろを境に個人主義が強まったが、北米・西欧ではもともと個人主義だと思っていた。そうではないらしい。そういえば、若いアメリカ研究者の鎌田遵も、市場原理でアメリカ人におおらかさがなくなってきたと、新聞のルポに日常体験を書いていた。北米・西欧の個人主義も時代で変化しているということだ。考えてみれば当たり前である。

 ヤングのいう個人主義は、選択の自由、多様さへの欲求、個性化を通して表面化する。60年代までは、アメリカ人も他人指向が強く、画一的な商品を大量に生産していた。しかし、個人主義の強まりによって、脱大量生産の時代が始まる。多品種少量生産である。生産過程で半熟練・非熟練労働者の必要性は減り、完全雇用社会は望むことができなくなった。不安定な雇用状況が生まれる、きわめて高収入の階層と、不安定雇用・失業状況の階層の人々が増えた。

 貧しい人々は剥奪感を感じ、この剥奪感がもう一度個人主義と結びつくと、人々はより富んだ階層に対しては敵意に近い感情を、より貧しい階層に対しては恐れをいだく。そして社会的な絆は失われていく…。ヤングは、個人主義は現代社会の深い部分に組み込まれ、現代社会が生み出している矛盾や課題と深く結びついているという。矛盾を解決するものが個人主義ではなく、むしろ矛盾の構成要素であり、しかし私たちは個人主義以前に戻ることもできない、という。

 ■「絆」の構想

 いろいろな分野で「当事者主権」「当事者主体」という主張が強まっている。それは、個人主義のさらなる徹底という側面がある。いま、個人主義が生み出したものを考え、個人主義をコントロールする「絆」を構想する。それは「当事者主体」が進展する現在、それが内包する課題を見つめるということである。

 おそらく、いま求められているのは、悲しげに“遠くに行きたい”と歌うことではなく、喜びに満ちて「いま、ここにいる」と歌える共有する自由ではないだろうか。(しかしそれでは、流行り歌に、なりにくいかもしれないと思いながら…)

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