なんとなくサンネット日記(個人ブログ) としおのつぶやき

2011年12月1日

監視型社会を生きる

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:36 PM
ビルの裏側にも粉雪

ビルの裏側にも粉雪

■監視カメラの私たち

 監視カメラがあれば安全だと思うようになったのはいつからだろう。

 以前は、監視カメラがあれば、覗かれる自分を想像し、想像力は瞬間的に嫌悪感になり、覗く人間(権力)に抵抗を感じた。

 権力=監視と、「私」=活動する市民は対立していた。覗かれるものと、覗く側とは確かな距離があった。交叉するものではなかった。

 いまや、そのシチュエーションは変わった。

 監視カメラが覗こうとしているターゲットは、「私」などではない。標的は私が見たこともないどこかの「犯罪者」。「私」は無関係、せいぜいその他大勢。

 監視カメラの画像を点検しチェックする人は、漏水を点検する水道職員と同じ。「不全」「故障」「異物」を点検する品質管理にかかわる。寒い日に鉄道の保線をする人、切れた電線を修理する職員、荒天のなか新聞を届けようとする人たち…。私たちは多くの人の努力に守られ、彼らが形成するガードフェンス、城壁の内側で暮らすことができている。

 だから、今や監視カメラで覗いている人の背中の後ろから、「私」たちも画像を覗きこみ、点検を済ませて、安心して暮すという図式になったのだ。

 監視型社会の内側でぬくぬくと暮らしたいと望む私たちは、日常の行動様式も変化し、新たな社会には新しい行動スタイルが選択される。

 情報を得たり情報をチェックする行動には、「監視」への欲求が含まれるようになった。誰かにまなざしを向ける、何かの行動を知る…その際、「安全」かどうかのチェックがすばやく、共感や感動が起きる前に、優先的に立ち上がる。

 「知ること」「見ること」「関わること」の下層、意識できない深いところの下層意識に、「監視」感覚がインクの滲みのように広がる。さらにその下層には、覗いてしまう自己に対する罪悪感、安全を脅かす他者の存在への嫌悪感、そんなものが山奥の沼の面にあわ立つメタンガスさながら、そこらここらにポコポコと浮かび上がる…。

■ワインズマンの答え

 アメリカのドキュメント映画作家、フレデリック・ワインズマン(1930年生)の作品上映会が、この秋から来年にかけて各地で行われている。

 11月に開催された渋谷・ユーロスペースの上映会は「ワイズマンを見る/アメリカを観る ―アメリカ社会の偉大なる観察者、フレデリック・ワイズマンの世界」と題されている。

 「偉大なる観察者」! 偉大なる観察者には、覗いてしまうことの罪悪感があるのだろうか、と思う。凡人はそんなことを考えるものだろう。来日していたワインズマンはインタビューでこう聞かれた。

 ――実際に撮影される際に、被写体のかたを傷つけてしまうことへの倫理的な恐怖感を感じることはありませんか。また、被写体のかたと撮影に関する契約を交わされることはありますか――(10月29日ユーロスペースのトークショー)

 この質問は、撮影という行為への本質的な問いかけではなくて、質問者自身がかかえている、見ることの罪悪感が表出し、ワインズマンに投影させたのだと思う。

 この前にワインズマンは次のような話をしている。「私の場合(マイケル・ムーア監督と違い)、実際に現場に行って、自分が観察し、そこで6か月とか12か月かけて学んだことを、映画という形で報告するという手法です」と。

 ワインズマンの撮影は客体と距離がない。彼が選んだ場――たとえば刑務所、救急病院、福祉センター、裁判所、DVなど――の一方の当事者として、その場に長い期間とどまる。そして、客体を見、客体の向こうにある世界の断片をつかみ続け、編集という作業で再構成したレポート・「映画」をこの世に送り返す。

 先の質問にワインズマンは答えた。

 ワインズマン 答えになるかどうかわかりませんが、ひとつ申しあげたいのは、今まで撮影対象としたかたのなかで、苦情を言って来られたかたはありません。撮影に際しては、こういう形で撮影しますと、口頭で説明します。そのときに、「イエスかノーか」という形でお聞きしますが、「ノー」とお答えになるかたは、めったにいらっしゃいません。…公共機関に関しては、書面の許可、撮影許可は取りません…民間の機関であればどうするのか。…『肉』という映画では、食肉加工工場を取りあげています。そちらに関しては、撮影許可を録音で取り付けています。どうして書面でのやりとりにしないのか。契約書に署名をすることになると、署名するかたは、もしかすると重大なことをしているんじゃないかという気持ちになってしまうんですね。ほとんど身売りをしているような気分になってしまうのです――(週刊読書人.2011.11.25号)

 私のいう「罪悪感」、質問者のいう「倫理的恐怖感」から遠く離れたところを、ワインズマンは歩いてきたのだ。彼は、多くの人の言葉に耳を傾け、足音や騒音を聞き、表情を覗き込む。緊張感や絶望、そして希望と日常。複雑な世界から何かをつかむが、単純化を避けてきた。世界と世界の境目を歩いていくだけ…。だけど、それはなんと軽やかな足取りなのだろう、と思う。

 彼の映画を見たい。

(以下、コミュニティーセンターの「フレデリック・ワインズマンのすべて」のHP)
http://jc3.jp/wiseman2011/index.html

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