なんとなくサンネット日記(個人ブログ) としおのつぶやき

2021年5月5日

分裂から3年過ぎて

Filed under: 未分類 — toshio @ 5:24 PM

やはり、発言しておかなければならないことは、発言しておこうと思います。全国「精神病」者集団(以下:「病」者集団)の分裂のことです。

   こんにちは

「病」者集団が分裂したのは、2018年3月から5月にかけてです。もう、3年たったことになります。このことについて、このブログで何度か述べたのですが、事情があって1年ほど前にそれらの記事を削除しました。


その後も、この問題については考えてきましたが、なぜか、関係者からの意見表明があまりにも少ないと感じていました。どのような組織も、年を経るごとのメンバーの変遷、外部事情の変化は避けられず、活動の状況が大きく変わり、組織の危機をむかえるといった事態は、ままあることです。危機になるとそれまで見えなかった「本音」が良くも悪くも表面化するものですが、「ホンネとタテマエはよくあること」とそのままにしておくのではなく、言葉を尽くし、考え、整理しなければなりません。


「病」者集団は任意団体ですが、精神医療の歴史のなかでは公的な面があります。この分裂に至る経過とその後の経緯も、未来からの問いかけに耐えられなければなりません。そして周囲にいる精神医療にかかわる者たちもここから学ぶべきことは学ばなければならないのです。

2018年3月

分裂の直接的な経過は次のようなことです。
2018年3月当時、「病」者集団は何年かにわたってグループ内に混乱がありました。
打開をめざし、「病」者集団の中心的なメンバーと第三者(コーデイネーター)が参加し、話し合いがもたれました。


一方の当事者である山本眞理さんは1980年代から長年活動し、名簿管理・会計管理をしていました。しかし、最近の活動実務は関口明彦さん、桐原尚之さん、山田悠平さんに移っていって、前者と後者との間には何年も前から埋めがたい溝が生じていました。


打開案について、山本眞理さんたちと、関口明彦さんたちは確認書を取り交わし、署名捺印しました。打開案のなかには数点にわたる手順と方法が書かれていましたが、その一つに、互いに「2018年5月1日以降、全国『精神病』者集団の名称を自己の集団を称する名称として用いない」という事項がありました。このことは、二つのグループはこれから活動を別にし、「病」者集団という名称を消滅させる、そのことに合意するということでした。つまり、「本家争いはしない」という前向きな「大人の決断」だったのです。(https://acppd.org/jngmdp-backup/news/4925.html)

しかし、関口さんたちは依然として「病」者集団を名のっています。そこはそれなりの関口さんたちの論理があるのですが、それでは、署名捺印する、その場面での関口さんたちの「合意」とは何だったのか。大きな疑問があります。

山本眞理さんは、2018年3月の確認のすぐあと4月に、新組織として「精神障害者権利主張センター・絆」という名称を用いています。私は、「絆派」という言い方をします。


一方、関口さんたちが「病」者集団を名のる根拠の一つは、関口さんたちは運営委員であるということです。運営委員会=執行部であり、山本眞理さんは会員であるかもしれないが組織的には何の役もなく、「病」者集団の組織運営にはかかわっていないと主張しています。それで、私は「運営委員会派」と呼びます。

名称問題

2018年3月の合意点のひとつに、「病」者集団を互いに「名称として用いない」ということがあったのですから、これは当然、歴史にピリオドを打ち、新しい道を互いに歩みましょうということが話し合いの前提にあったということです。


話し合いのテーブルに、「絆派」となる山本眞理さんは「病」者集団の名簿と会計と歴史を差し出し、「運営委員会派」の関口さんたちは現在の活動の力を差し出したということでしょう。その場では、互いは、「病」者集団という一つの組織の二つの面であり、組織に影響力を持つ実力者として認め合い、テーブルの上の歴史的財産を二分して、別々の歩みを始めようとしたのだ思うのです。


この問題についてよく知らない人は、なぜ、執行部でない山本さんが名簿や会計を一手に扱っていたのかと思うでしょう。逆に言えば、執行部であると主張している運営委員たちは、なぜ名簿や会計を管理しないで、なぜ執行部として成り立っていたのか、ということです。


「病」者集団は、1974年に設立され、全国の地域患者会、病院患者会の連合会という組織体をめざしました。そして、会則や代表はおかず、政治的には急進的であるけど、大野萌子さん(1936-2013)というカリスマ的人物を中心に、全国規模のネットワークとしてあり続けたのです。

大野さんから組織運営をバトンタッチした山本眞理さんは、会員に呼びかけて2006年頃に「運営委員会」を設置しました。これには、政治的な背景がありました。

 日本の障害者の団体連合(JDF)が国際的な連合組織に加盟しようとなるのですが、精神障害者の全国組織を欠いたままでは、国際的連合体への加盟条件を満たせないという事情をかかえていました。「病」者集団は、上部・下部構造のないネットワーク組織でしたが、すでに精神医療ユーザーの国際的組織に加盟していましたので、JDFからJDFへの加盟を呼びかけられたのでしょう。

 そこで、「病」者集団は「運営委員会」を設置し、「普通の」団体のような❝意思決定機関❞をもつ組織になってJDFに参加し、JDFは国際的な連合組織に加盟しました。

 このような経過で山本さんと「運営委員会派」の二重構造が生まれました。 しかし、運営委員の当初の活動状況は、会員を代表し統括する「執行機関」というより、不定形な会員ネットワークを形にしていく「ポスト会員」といった感じだったように、遠目から私は思っていました。不定形な会員の下からの「意思」を形にしていく役割なのか、役員の「意思」を活動に展開するよう執行する役割なのか、どちらともいえる役割が、今回の分裂の遠因だったのでしょう。

 いろいろな力関係と状況によって、組織は次第に変化してきたのでしょうが、山本眞理さんは「「病」者集団はネットワークである」とずっと言ってきたと思います。

 2018年3月、この話し合いのテーブルで話し合われた、名簿、会計、名称は、いずれも組織の財産です。選挙の場面でよく言われるのですが「選挙に必要なもの、地盤(支援者=名簿)、看板(知名度=名称)、カバン(選挙資金=会計)」。この三つは、社会活動するときにも必要な財産です。

なぜ、「運営委員会派」は名称を使い続けられるのか

 「2018年5月1日以降、全国『精神病』者集団の名称を自己の集団を称する名称として用いない」と合意したのに、なぜ、名称を使い続けるのか、次のような理由があると「運営委員会派」は主張します。(https://acppd.org/a/2417)


① 話し合いに参加した運営委員3人は、「病」者集団の組織代表として参加したわけではなかった。したがって、「病」者集団が名称を変更するよう「事務的に遂行する」義務を負っただけである。


② 合意をした翌月、「絆派」は自分のニュースで「病」者集団は分裂したなどと分裂に誘導する宣伝をしたのは、合意項目の名の一つである「合意内容以外を公表しない」という点に違反している。(「病」者集団として分裂に合意しているわけではないから。)


③ 2018年5月末に「病」者集団は総会を開いたが、その総会で名称変更案は否決された。したがって「病」者集団としてはそのまま名称を使用することになった。

この態度は注目に値すると思うのです。私は「絆派」を擁護するなどという立場ではありませんが、これは通常の社会生活で経験することとは異次元の態度です。こういった主張がまかり通っていいとは私には思えません。

 もし、運営委員会派の人が組織を代表する人間としてではなく、話し合いのテーブルについていたのなら、そのような立場であることを事前に、相手方やその場をつくってくれた第三者にも話さすべきでしょう。周りは期待しているのですから。名称変更案を、総会にかけると、通らないかもしれないと話すべきです。あらかじめそのような場合も含めて、三者で対応策を立てておくべきです。その上で、総会で合意点を達成できないと思ったら、すべての合意を破棄すべきでしょう。会計も名簿も。そして、重要な提案が否決することは、提案者自身の目標や行動も否決するということですから、別の人物が新運営委員になるのが、よくある、通常の組織運営方法というものではないでしょうか。

 私たちは何かの危機に陥ったとき、その相手方と会い、打開策を見出そうとします。たいがいは、自分も損をする、相手も損をする、だけど公平に損をして、少しずつ得をとろうよと話すでしょう。人生のなかではよくあるトラブルを、どう解決するのか。そこには、解決をめざそうという互いの「共通基盤」があると信じ、その基盤の上に打開策をのせ、検討していくのです。


ところが合意したと思ったのち、相手方が、自分は約束を守りたかったけど、自分はもともと代表でもないし、身内が反対したら従わなければならないからね、といって約束のかなりの部分をもっていってしまったら、誰も騙されたと思うのではないでしょうか。「共通基盤」があると見せかけて、実はない、という態度と考え方。その延長の中で市民活動が展開されていく…それはとても気になるのです。

以前削除した記事の一つが(2018年6月3日)「ネット魚拓」として残っていました。
https://megalodon.jp/2018-0620-0159-15/www.npo-sannet.jp/blog/?p=3554

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「僕はどうすればいいんですか、具体的に?」

「まず第一に相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事をとり繕ったり、都合のわるいことを胡麻化したりしないこと。それだけでいいのよ」

「努力します」と僕は言った。

ノルウェイの森・村上春樹

2020年3月16日

津久井やまゆり園事件の判決を前に

Filed under: 未分類 — toshio @ 12:36 PM

■事件の本質はどこに

今日、津久井やまゆり園事件の横浜地裁の判決が言い渡される。もう事件から3年半が過ぎた。しかし未曾有のこの事件の本質がよくわからないまま、風化がすすんでいる。

あるくお坊さん


多数の犠牲者を出したかつての事件と比べて、犯人である植松被告の人間性がうまく伝えられていない。勇気をもって発言している被害者家族もいるが、多くの被害者は匿名のままである。職場の同僚だった人々の思いや現状もよくわからない。

植松被告は控訴しないと明言しており、このまま収束しそうである。





「今回の裁判、障害者の問題を真剣に考えてきた人ほど、本質的なことは何一つ明らかになっていない、責任能力があるか否かだけを論じた空疎な裁判だった、という批判的意見が多い。障害者への差別の問題も、障害者施設や支援のあり方も、法廷では確かにきちんとした形で俎上にも載らなかった。 こんなことで相模原事件を終わらせてしまってよいのだろうか、という思いは強い…(おそらく死刑判決となるが)死刑確定し、接見禁止もついてしまうと、事件解明には大きな限界が出てくることは明らかだろう」

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200303-00165868/

月刊『創』編集長・篠田博之氏の記事である。氏は別のところでこうも述べる。

「相模原事件はいまだにわからないことがたくさんある。この事件に社会がどう向き合い、対策を講じるのか。それがなされないまま風化だけが加速していくのではいけないと思う」(『創』.2020年4月号.P51)。

植松「被告」が「死刑囚」になったとき、津久井やまゆり園事件の本質的問題は深い闇に消えていく。社会の闇の部分に植松が吸い込まれたとき、彼と向き合うのは、執行の役目も負う刑務官である。もし私がその刑務官の立場だったら、と考えることがある。「いまだにわからない」植松という人物像とどう向き合うのだろうと。伝えられる接見や公判の彼のようすから想像すれば、拘置所で彼はていねいで、問題少なく(自殺企図以外)過ごすかもしれない。しかし「わからない」まま、ある時、「私」は執行に従事する可能性がある。こういったことに精神的に耐えられるだろうか、と思う。

■人との関係を分ける「壁」は

社会心理学者の小坂井敏晶は、ホローコストとは、そこにかかわる人間たちの人間的感情、殺人への嫌悪や動揺が起きないように仕組みをつくることによって実現する、といった文脈で次のように述べている。


心理負担だけからいえば、原爆で何十万もの人々を殺す方が、人間一人を包丁やバットで殺傷するより容易だ。多くの人命を奪った行為を後悔するかもしれない。しかし行為の瞬間においては、泣き叫び哀願する老婆や子供の命を血まみれになって奪う状況に比べて、レーダーや計器の数値を見ながら爆弾投下のボタンを押すだけの方がはるかに楽だ…犠牲者との心理的距離が保たれ、具体的な人間性に触れないと、殺傷に対する強い抵抗が起こらない。だが、殺す相手が自分と同じ人間だと認識するやいなや、殺人の意味が変容する。(『増補 責任という虚構』2020年.ちくま学芸文庫.P87)

人は人を殺すときに、相手方を同じ人間だと思わないように、犠牲者との心理的距離が保たれる機械的・制度的・思想的・心理的仕組みを講じると述べているのだ。死刑執行をする刑務官の場合、国家の総力を挙げてつくられた心理的「壁」の真っただ中にいる。
多くの責任者の決済と業務命令によって連結された死刑制度は、法制度の安定という美名のもとで、個々人の裁量はないかのように進行する。執行日当日の役割も細かく分担され、絞首台の床を跳ね下すボタンも複数あり、複数の刑務官が同時に押すことで誰のボタンが作動したかわからないようにカモフラージュされる。あらゆる「壁」がつくられている。

たった一人で多数の人を殺した、あるいは殺そうと傷つけた植松は、人を殺すための「壁」を自前で作ったのだろう。真夜中の施設に侵入して寝ている障害者を一人一人確認しては、ナイフでその胸を刺す。そのためには、何らかの心理的な壁が必要だ。そうでなければ、声をかけ、相手の目を見て、行為を連続することなどできるものではない。「壁」の表れの一つが「心失者」という彼の造語だろう。「人間ではない」とする考えが「壁」であった。

植松は重度障害者は人間でないと考えたから殺人を犯したのではなく、殺人を犯すために「人間ではない」という考えをつくった可能性もある。殺人を実行したいという考えが、「心失者」という考えの前にあったかもしれない。

人は苦しいとき、悩んでいるとき多かれ少なかれ「壁」をつくる。あるいは普段から深刻な「壁」をつくる人もいる。殺人という極端な場合であれば、もっと複雑で強固な「壁」を意図的につくるのだろう。

どのような「壁」であっても、他者がそれなりに理解できればそれなりの関係は作れるものだが、植松被告の場合どのような「壁」で、それがどのように生まれてきたものか分からない。これだけの人たちが、これだけの時間をかけても分からない。おそらく彼は「壁」の向こう側にいるのだ。

死刑執行に携わる刑務官は、愚かな事件を犯した加害者やたぐいまれな粗野な人物と向き合うだろうが、事件や加害者のそれなりの物語(≒「壁」の由来)を刑務官がつくることによって拘置所の日常を乗り切っていく。執行には「壁」が必要だが、そこに至る長い日常においては、「壁」をつくらざるを得なかったという死刑囚への人間理解がなければ日常を乗り切れるものではない。

植松死刑囚と向き合う刑務官は、やまゆり園事件を遂行させた彼の「壁」を理解することはできない。「壁」を越えた人情味あるふれあいなど生まれるべくもない。しかしある日、刑務官に業務命令が下りれば、国家的「壁」のもとで執行しなければならない。そのような日が来ることをいつも感じながら、拘置所の日常が存在する。執行の可能性を意識し続け、自分と相手の両方の「壁」に目をつぶり続け、同時に人間としての自分を確保する。それは困難なことだと思う。

■死刑制度

植松が死刑確定囚となって東京拘置所に移送され、そこで向き合う刑務官は、奇妙なことに、「壁」という軸の鏡対称のなかで彼と関係することになる。刑務官は死刑囚にそれなりの物語をもつ。育ちに問題があった人間だとか、誤った思想にもとづいた事件だったとか、精神構造が崩れていたからだとか。しかし植松にはそれがない。彼の「壁」はまだしっかりと存在している。

植松は過去の殺人において手作りの「壁」を心の中につくった。刑務官は未来のいつか、死刑執行を行うとき、国家的な「壁」に身をゆだねる。植松と刑務官は、「壁」を内在させつつ、日常を共有する。食べて、寝て、身の回りのもろもろのことが同じように続く。

死刑執行の時、刑務官の「壁」は、植松死刑囚に見わたせないほど大きな存在となって彼の前に現れる。刑務官は植松死刑囚の心の「壁」が理解できないまま執行に入る。互いに非人間的な構えをかかえたまま執行が終わる。

殺す側の刑務官は相手を理解する物語をもてないまま殺し、殺される側の植松も相手の人間的な意図が見えない。それでは津久井やまゆり園で植松によってなされた殺人と同様の、焼き直しのような殺人(死刑)ではないか。執行が、事件とすっかり裏表の関係となって表れる。

死刑制度と植松の起こした事件が従妹どうしのようであるかのように似てくるなら、結果論ではあるが、死刑制度のある日本社会だからこそ、植松が大量殺人を思い至ったのではないかと思えてくる。実は植松は初めから死刑を覚悟して、架空の物語を描いてきたのではないかとさえ思う。われわれは彼の架空の物語に付き合わされているという可能性はないのだろうか。百歩譲ったとしても、死刑制度がこのような犯罪の抑止にならないのは確かである。

■雨宮処凛の感想

事件をめぐってのいろいろな人の発言の中で、私にとって興味深かったものの一つに、雨宮処凛の記事がある。今年の1月30日、彼女が初めて植松被告と接見したときの感想である。

だけどそれは、法廷では自分を正当化する発言ばかり繰り返していて、面会では事件以外の話題にも触れるからだろう。話していると、狂気と普通さが順繰りに現れた。あまりにも、ナチュラルに。そのたびに、ひたすら混乱した。

同時に、「あなたは間違っている」などと言われると、植松被告がスッと感情に蓋をするのがわかった。先回りして、批判されそうな発言をする際に前もってやっているとわかる時もあった。

姿勢を正し、妙に丁寧な物言いになるとき、「あ、今、心を完全に閉ざしてるな」とわかるのだ。そんな時、目の前にいる植松被告がサーッと遠ざかるような、半透明のカーテンが下りるような感覚になった。

それほどわかりやすく心を閉ざす人を、私は初めて見た。そしてそれは何か、年季の入ったやり方にも見えた。もしかしたら、事件後とかじゃなくて、子どもの頃から植松被告は何かあるとこんなふうにスッと感情に蓋をしていたのではないか。わからないけど、ふと思った。

https://www.buzzfeed.com/jp/karinamamiya/amamiya-vs-uematsu

雨宮が感じたように、植松は厚いガラス窓の内側にそっと心を潜ませていて、その内側からガラス越しに現実感の乏しくなった世界を眺めていたのかもしれない。他人はガラスの表面を彼自身と思いこみ、ガラスにむかって反応する。植松にとっては、ガラスの内側と表面の落差がミラーガラスのように働き、他人を眺める感覚が生まれて面白かったかもしれない。他人が本物の自分でない表面に対してどのように反応するか、いつも気にしていたことだろう。

障害者は彼のようなガラスの蓋などもたないが、そういう障害者が植松は憎かった。あるいは、むしろうらやましかったのかもしれない。意思疎通ができなかったのは、真の意味では彼の方だったかもしれないからだ。

彼は、たびたび障害者の親は疲れ切った顔をしているという。そそくさと施設を帰ろうとする親たちのことにふれる。不思議な表現だ。彼が言いたいのは障害者か、家族か。そこが判然としない。私は、疲れ切った顔を向けられている側(この場合障害者)のことを言っているのではないかと思う。

植松被告の親が彼と別居したころから、彼は親から疲れた顔で見られる空々しい関係にあったかもしれない(?)と思う。別居は彼がやまゆり園に就職する時期と重なる。自分の状況を施設の状況と重ねるようになったのではないか。ほとほと疲れ切り、交際を避けるようなしぐさとは「親」への反発なのだが、即座に否定し、お荷物の障害者というような方向に90度転換させた。

障害者の彼らは、不満であれば直接行動化する。その彼らを支援するのが「私=植松」の仕事だが、植松は彼らほど行動で表現できない。この仕事と自分の状況全体との関係を、彼はうまくつかむことができなかったのではないか。

ことの出発は、植松被告の感情に蓋をするという「くせ」にあったのかもしれない。その「くせ」に覆いかぶさってきたのが、職員と利用者は契約関係と制度が求める関係だった。彼のものの見方はゆっくり破綻し、おかしな方向への構築に拍車がかかった。そんなふうに思う…。

どのような判決が下されようと、それに植松被告がどのような対応をしようとも、私たちは事件を風化させてはならない。なんとしてでも、私たちの身の回りに、再びこのような事件がおきないように営みを積み重ねていかねばならない。殺され、殺されそうになった犠牲者、その家族、殺人現場で傷つけられた職員、現場に駆けつけて動揺した救急隊員、助けようとした医療従事者、植松と暮らした地域の人々、亡くなった人を知っている知人、友人たち…それらの人たちとの見えない糸を紡いでいかねばならない。そのように思う。


2011年3月21日

想像して手を携える

Filed under: 未分類 — toshio @ 3:41 PM

彼岸の空

大震災から11日

東奥日報にのったエッセイや記事です。

■ 12日、青森市本町4丁目の吉田幸子さん(77)は、ラジオで地震情報を聴きながら1時間おきに仮眠したほか、朝はガスで炊いたご飯でおにぎりを作り、様子を見に来た息子に分け与えるほどの余裕ぶり。吉田さんは「戦時を経験したので、いざというときの備えができていた」と話した。(3月13日付東奥日報)

■ 古川日出男(66年、郡山市出身、作家)

(テレビから流れる映像に)知っている地名があまりに多いことに動揺したし、それは単純に福島県内に限らなかった。たとえば宮古も久慈も八戸も…視覚的な記憶すら持っている町並みもあった。いいや、なかった。そうした町並みがなかった。そんなふうに「あった」ことがのみ込まれてしまうなど、誰が想像しえただろう?いま現在も事態は推移し続けていて、僕はこう思う。それでも、違う形で想像するしかない。想像力を善きことに使うしかない…われわれはつながっていると信じて、想像して、手を携えること。それは目に見えない手かもしれない。しかし握り合えるのだ。(17日付東奥日報)

■ 辺見庸(44年、石巻市出身、作家)

(大震災後の人間社会は)人として生きるための論理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている…非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか。すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追及できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。(18日東奥日報)

■ 天野秀昭(58年、東京生まれ、NPO日本冒険遊び場づくり協会副代表)

(阪神淡路大震災の支援の経験から、遊び場での)遊びは、子どもが自身に降りかかった出来事を、何とか受け入れ、乗り越えようとしている表れなのである。遊びは、決して単なる暇つぶしではない。被災した子どもは、自分で何とかそれを乗り越えなくてはならない、走り回り発散する。友達と話し込む。時には痛手を負った出来事を遊びに変えて受け入れようとする…仙台市の「海岸公園冒険広場」「西公園プレーパーク」。どちらも僕と同じ願いを持つ仲間の活動の場だ。そこが、壊滅的な被害を受けた。けれど、3月13日、ようやく元気な声を聞くことができた。「子どもの復興」の始まりだ。…「子どもが元気でいれば、みんな元気でいられる」(19日付東奥日報)

■ (高速旅客フェリーナッチャンワールドで北海道からの支援物資が青森港に届いた。)岩手県の被災地に生活物資を運ぶという洞爺湖町のトラック運転手木谷和久さん(47)は「自分も有珠山の噴火で避難所生活の経験がある。なるべく早く届けてあげたい」と話した。(3月21日東奥日報)

Powered by WordPress