なんとなくサンネット日記

2016年3月31日

青森 発見

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:11 PM
青森 発見

青森 発見

2016年2月27日

侘びる

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:20 PM
どことなく、春の匂い

どことなく、春の匂い

■トラブルについて

具体的には言えないけど、ぼくがある種のトラブルに遭うとする。

誰かが引き起こしたトラブルで、ぼくはその人を支援する立場にあるとする。トラブルというできごとを挟んで、その人とぼくは向き合う。そこまではよくある日常的なできごとだ。

普通は、相手はそのできごとを説明しようとし、ぼくはできる限り理解しようとし、互いに解決をめざす。その過程は格闘もあるけど、理解も深まっていく。無事解決し、時がたてば、よい思い出になる。やがては笑い話にもなる。ところが、そうではない種類のトラブルがあることを話したい。

その種のトラブルに出会ったぼくは、たいてい、不自然さを感じる。しっくりこない。こういったことは体験したことがないなあとか、どうしてここでこうならなきゃいけなかったのか、成り行きがわからないなあとか、首をかしげる。

それでも、ぼくはなんとか理解しようとする(これは職業病的なのだけど)。そしてこんなふうに思うようになる。「彼や彼女の経験不足なのだろうなあ。もしかしたら、自分の気持ちをうまく表現できないのかもしれない。それに勘違いがあるのかなあ…etc。」

もう一つ、その時は気に留められないささやかなこともある。彼や彼女は開き直っているわけではないが、冷めているというか、一生懸命説明しようとしない。何より〈詫びない〉ことである。

ところがどうしても職業病的な姿勢が先行して、感じた不自然さをはっきりさせないまま、ことは次の場面に移っていく。なんとなく、トラブルは解決する方向に向かっているのだろうと、自分で思い込もうとするのだが、やがてとんでもないことが起きる。

3ヵ月くらいすると(ここは体験的にどうしても3ヵ月なのだが)再び、同じようなトラブルが起きる。そして2度目はどうしようもなく深刻なトラブルになり、ドロドロの状態になって延々続いていく。

…何年かして気がつく。一度目のトラブルは、二度目のトラブルの予兆だったということを。

 

もし一度目のトラブルの時に感じた不自然さにもっとこだわっていたら、そしてそこを解明しようとしたら、より深い問題が見えてきて、その後の経過が変わっていたのではないか。そんなふうに思うのだ。しかし、一度目のあの場面で、ことの重大さに気づくのは簡単ではない。でも、目印はある。〈詫びない〉ことである。これがあるかないかが、何気なく出会っているトラブルが、次の重大なトラブルを引き起こす「予兆」か、無視してもよい、よくある「日常」かを見極めるリトマス試験紙なのだ。

 

■『モンスターマザー』を読んだ

先日、たまたま手にとって読んでしまった本である。『モンスターマザー 長野・丸子実業「いじめ事件」教師たちの闘い』(福田ますみ、新潮社、2016年)。読んでみて「〈詫びない〉トラブルは大きなトラブルの予兆」というぼくの持論の再確認になったような気がする。

その前に、この本について述べておく。

2005年12月、丸子実業高バレー部の1年生(高山裕太君)が自宅で自殺した。事件をめぐり、母親と学校・生徒側が激しく対立し、8年近くの訴訟合戦がおこなわれた。そのことについての本である。

書名のとおり、著者は、学校・生徒を擁護し、母親と支援者であった弁護士・ジャーナリストを批判している。

学校側と母親側の立場は大きく違っていた。

母親と支援者は、いじめの事実を隠す学校の閉鎖体質を暴こうとする。そして学校長を刑事告訴し、県・校長・生徒の親にたいする損害賠償請求闘争をおこなった。

一方、学校・生徒側は、調査をして、母親が主張するようないじめは存在しなかったという認識にいたる。学校・生徒から見ると、母親は「モンスターペアレント」で、訴訟は事実無根の濡れ衣であった。

バレー部生徒の親も、母親にたいして損害賠償請求の反訴。校長は、母親・代理人を名誉毀損で提訴。すべての訴訟が終了するまで事件から8年かかった。裁判闘争では、学校・生徒側の申し立てがほぼ認定されているという。

 

ここで、ぼくはどちらが正しいかを断定するつもりはない。この本について取り上げたいのは、裕太君の8か月の経過である。

小学校の頃からバレーチームに入っていた裕太君が、バレーの名門丸子実業に入学して、わずか8ヵ月余で自殺するのだが、高校に在学した期間を三つの時期に分けることができる。

5月30日に初めての家出をするまでの2か月。830日に2回目の家出をするまでの3ヵ月。そして、2回目の家出を契機に母親が激しく学校やバレー部に抗議、非難を続け、自殺に至るまでの3ヵ月、三つの時期である。

 

2005年4月 高山裕太君、県立丸子実業高校(当時:建築工学科)に入学。バレー部に入部。
5月30日 裕太君、1回目の家出をする。31日佐久市で見つかる。
8月30日 2回目の家出。(前日、担任の教師が、裕太君が夏休みの宿題(製図)の提出をしていないことを注意。「2学期の評定が1になってしまうけど、どうして間に合わなかったのかね。お母さん悲しむね」と話す。)
9月5日 東京で保護された裕太君を母が迎えに行き、帰宅。2回目の家出以降、母は学校の対応について強く抗議するようになる。
9月~11月 母は、学校、県の教育機関、バレー部関係者・生徒・家族、PTA役員などに、電話・ファックスなどで抗議。学校側も調査をし、保護者会を開催。母と学校の関係が悪化し、裕太君は不登校のまま。
12月3日(土曜日) 夜、母宅で話し合い。母と本人、教頭、担任、県職員2名、県会議員。裕太君が5日に登校することになった。
12月5日 裕太君、登校するはずが登校せず。
12月6日朝 裕太君自殺。母が発見。

 

5月の最初の家出が、何らかのサインだったとぼくは思う。というのはこのできごとに「〈詫びない〉トラブル」を見ることができるからだ。本では最初の家出についてこう書いている。

 

――5月30日、裕太君は何の連絡もなく学校を休んだ。夜7時過ぎ、立花(担任教師)はさおり(裕太の母)から「裕太が家出をした」という連絡を受ける。本人の制服や携帯電話があるのに自転車がないので家出だと判断し、捜索願を佐久警察署と丸子警察署に出したという。

「(家出の理由について)何か心当たりはありませんか」

立花が尋ねると、さおりはこう話した。

「昨日、弟(次男のこと)のために用意したお金がなくなっていたんで、裕太を疑って問い詰めたんですよ。でも、(お金を)取ったことを認めなかったので、家から出て行けと言ってしまったんですよ」…

(翌日31日の)午後1時半頃、(町を探し回っていた)さおりと立花は、佐久市内の書店にいる裕太君を発見する。さおりは裕太君に駆け寄り、抱きしめてこういった。

裕太、よいお医者さんに診てもらって、声はきっと治してやるからね

(ん? なぜ高山さんは、裕太君に「家を出て行け」と言ったことを侘びないのだろう)二人を見守っていた立花に、さおりの言葉はひどく突飛に聞こえた。…――(p17-19)

 

母は「声を治す」と言っているが、それは裕太君が中学2年生あたりから、声がしゃがれてしまい、突然、大きな声を出せなくなったことを指している。抱きしめ、再会を喜んでいるのに、なぜ声の問題が出てくるのか、担任は解せなかった。

ここで〈詫びない〉のは母→裕太である。「母→担任などの探しまわってたくれた協力者」「裕太→バレー部の仲間」という関係においても詫びなかったかは、よくわからない。記述はない。

しかし、母→裕太に限定しても〈詫びない〉トラブルであることがわかる。仮に、母が詫びて「裕太を責めてごめんね。もう家を出ていけなんて二度と言わないよ」といったら、母親は、しつけ方に問題があったことを認め、あらためたいと約束したことになる。自分と家庭の問題を、子どもと周囲の人間にオープンにしたということになる。ところが実際は違っている。

裕太に治療というご褒美をやると言って、自分の非や家族の問題は認めなかった。オープンにしようとはしなかった。〈詫びない〉ことによって、家族と自分の問題を隠したのだろう。

もし、ここに教師が着目したら、6月から8月にかけて、裕太がかかえている家庭の悩みにアプローチできたかもしれない。そして830日には「どうして間に合わなかったのかね。お母さん悲しむね」などと家族問題を刺激することはしなかったと思う。もちろん、隠されているものを発見するのはとてもむずかしいことだったのだが。

ぼくはこの本をこんなふうに読んだのだ。

 

■〈詫びない〉こと

ぼくもそうだし、丸子実業の教師もそうだろうが、支援者は自分なりの支援見取り図をもつ。こうなったらこうだろうとか、こう言ったらこうしてくれるだろうという、体験からつくられた支援マップだ。しかしこの地図にはいろいろな前提がある。もっとも大きな前提は、相手と自分の間には信頼関係があると思っていることだ。

しかし、支援者側が思い込んでいる信頼関係とは、はなはだ異なる場合だってある。時には、支援者のマップが地上の様子を描いたマップだとしたら、相手は下水道や地下道、共同溝など地下の様子を描いたマップをつくって、そのなかを動いているのかもしれない。

そして、ある種のトラブルとは、二つの地図の衝突であり、地上と地下を結ぶマンホールの蓋のようなところに両者がいるとすれば、蓋をオープンにして、開け放してしまうと、地下に続く道をたどられてしまう。だから〈詫びない〉。詫びられないのだろう。

そのようなことを考えるようになったぼくは、〈詫びない〉ことをある種の警戒警報としてとらえるようになった。詫びろと強要するつもりはさらさらないけど、その背後には大きな意味が横たわっていると思っている。

ただ「3ヵ月」という間隔はなんだろう。この3か月という時間のリアルさを、裕太君の場合もそうだが、ぼくもたびたび実感してきた。人間関係が再び入り組むのにかかる時間なのだろうか。それとも一人の人間が、心の中で緊張を持続できる時間の限界なのだろうか。よくわからないが、3か月すると何かが起きるのは確かだ。

だから、〈詫びない〉トラブルがあった場合、適切に対処可能な時間はあと3ヵ月しかないのである。

 

2016年1月30日

思い出すこと

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:56 PM
寒中のひと時

寒中のひと時

悪夢にうなされ、自分の声で驚いて、ハッと目を覚ましたら汗びっしょりだった。

悪夢は、夢の中で確かに現実だった。

昼間、友人にそのことを話す。「夕べひどい夢を見て…」と話す。ところが話をしている私は汗も出なければ、夢を見たときとは違っている。体験することと、想い出すことは違う…そんな知識をぼくたちは知らず知らずに蓄えている。

しかし、夢は他者と共有できるものではない。夢が未来を予測したり、真実を暴くものであれば別だが、ふつう人間社会で価値を生み出さない。なので、夢で体験した現実はプログラムでいえばバグ(何かの誤り)のようなものとして考えるようなる。

人間に付きまとうヒューマンエラー、錯覚といった「ブラックボックス」のなかに放り込んで、まぜこぜにしてそれ以上は考えない。それが大人になることだと信じるようになり、やがて忘れる。

しかし、いつかは、夢、幻視といったことの「現実体験」と、錯覚、思い違い、意識の低下との区別をつけなければならない。

 

 

視覚が衰えた高齢者の15%が人や動物などの複雑な幻覚を見るという。

聴覚に障害がある人が幻聴を聞くこともよく知られているそうだ。

独房に入れられた囚人は「囚人の映画」といわれる幻視を体験する。

水夫、トラック運転手、パイロットなど視覚的に単調な仕事に従事していると幻覚を体験する。(水夫の「セイレーン(海の怪物)」、トラック運転手の「トンネルの幽霊」、パイロットにとっての「UFO」も、その一部は幻視かもしれない)。

聴覚、視覚、触覚の感覚を遮断し、幻覚や幻聴を体験するという実験が行われた。

そういった感覚遮断のドイツの実験である。ある研究者グループが、女性芸術家に22日間目隠しして幻視を体験してもらった。目隠しをしたままMRIに入り、幻視が始まるときと終わるときを合図する。研究者はMRIで彼女の変化をスキャンする。すると、彼女は幻視を見ているとき、視覚野が活性化していた。つまり幻視とは「実際に見ている」のである。

次に、目隠しをとって、彼女に自分が見た幻視をイラストで描いてもらう。そして像を思い出してもらうという作業をする。ところが、そこでは視覚野が活性化しなかった。つまり、イラストを描く、思い出すことは、「実際に見ているのではない」。

これは、先の「悪夢の体験」と合致している。幻視を見ていることと、それを思い出すこととは違うのだ。しかも「体験」はただの錯覚ではなかった。脳のスキャンと一致していた。(「意識と無意識の間」マイケル・コーバリス、鍛原多恵子訳、2015年、講談社新書、p167-168)

 

 

これはいくつものヒントを与える。

幻視や幻聴は、いろいろな原因から生じ、本人にとっての体験は実際に見たり、聴いたりすることとかわりがない。(ということは、幻聴・幻視=統合失調症という図式は成り立たないだろうとぼくは思う)。

脳自体のある種の必要性、例えば感覚遮断という「退屈」などから、幻聴・幻視が生みだされるのかもしれない。

そして、脳は、幻聴・幻視を働かせる分野と、想像や記憶の再現に関する分野に、信号を分類して、それぞれ異なる領域に送り出すのかもしれない。

PTSDのフラッシュバックは、「記憶の再現」であるはずが、「幻視」へと間違って送られることかもしれない。既視感が心を妙に不安にさせるのは、現実に働いている視覚が、「記憶の再現」機能とクロスするためだろうか。

メンタルヘルスに課題をかかえていて、幻聴や幻覚で悩んだ経験をもつ人は、症状が「恐怖」「不安」などのネガティブな感情と結びついていることが多い。この場合、記憶を再現して語るということは、幻視ルートに乗りやすい潜在的な脳内信号が、ネガティブな感情との結びつきと切り離れるように働くかもしれない。

「見る」ことと「思い出して見る」こととは別のはたらきであるということは、思いのほか、大きな意味があるように思う。単なる記録力の低下ではなく、思い出さない、覚えていないということを自分に役立てるような人の場合、幻視や幻聴より問題が大きいのかもしれないと思うのだ。

 

第二次大戦中、ニューギニア戦線に従軍した漫画家の水木しげる(2015年11月30日享年93歳で逝去)はこんなことを言っている。

案外、空腹というのは(空腹といってもかなり強烈な空腹だが)、いろいろな幻覚というか、奇妙なものを見せてくれるものだ。戦争中、1年も飯というものを食わなかったことがあるが、白米を食う夢とか、すき焼きの夢ばかりみていた。しまいには夢を通りこしてなんだか、そこにあるような気さえしたことがある。(『水木しげるの妖怪文庫(二)、河出書房新社、1984年、p165』)

おそらく、白米の「夢」や「現実」が彼を救ってくれたのだろう。

もしも、自分だけ白米を食べていながら、食べたことを忘れてしまった上官がいたら、その「記憶の喪失」は、水木たちの「白昼夢」より、たちの悪い能力だ。「悪いやつほど眠る」とは、この忘れる能力をさしているのだろうか?

2015年12月30日

個性を超えるもの

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:56 PM
散歩

散歩

今年もあと二日を残すだけになりました。

26日から降った雪は積雪40センチを越えました。雪片づけに精を出さざるを得ないのですが、するといろいろな人に出会うものです。

 

プードル犬に服を着せて散歩させている女性。

ゆるゆるとポスティング作業中の中年女性。

愛想のいいバイクで配達中の郵便局員。

外にいる娘になにやら叫んでいる病気療養中のおばあさん。

車の屋根の雪を片付けず、車を動かして、振り落として走り去った中年男性。

一人暮らしの女性を気遣い、玄関先の雪を片付けてあげる近所の男性…。

わずか、2,3時間の雪片付けの間に、ドラマのいくつかのシーンを見る(ようだ)。

ちいさな地域にも、いろいろな人が生活している。欲があり、個性がある。

なぜ、人間はこんなに個性あるのだろうと思う。

 

そういえばと、思い出す。

蜂は、巣の中が高温になると幼虫が弱るので、羽で風を送って、温度を下げるという。

ところが、その風を送る仕事を、早めに着手する蜂と、ずいぶんあとになって出てくる蜂もいる。

働き者と怠け者だ。

でも、それでいいのだそうだ。

その「個性」、反応に対するグラデーションは、低い気温のときは送風が「弱」となり、高い気温のときは「強」となるからだ。「個性」が集合すると、別のレベルの機能を発揮するのだという。

 

人間も、この個性というものが、集団になるとなんかの機能を発揮するために生れてきたものではないだろうかと思えてくる。

もし、集団が自覚している利益や目的のためでなく。別の次元の何か。

別次元だから、どうしても語りきれず、つかみきれず、祈るしかなくなるのか。

 

そんなことを考えながら、雪片づけをしていた今日でした。

来年もよろしくお願いします。

2015年11月30日

保護色

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:57 PM
さあ、魂の海へ

さあ、魂の海へ

佐久間の調子はかなり悪い。なにより怒っていた。彼の思考は怒りの推進力によってあちこちに飛び火した。

障害福祉サービスの管理者に食ってかかったが、理由は、三日前、彼が夜中に電話をしても、管理者が駆けつけなかったからだ。

管理者の妻が駆けつけ、長い時間話したのだが、彼の怒りの軽減にはならない。佐久間にとって、長年の信頼を損なう、許しがたいできごとだった。

しかし、今日は大学の看護学生への講演にいかねばならない。予定では、佐久間を含めて4人のメンバーで学生に語り、大学までの往復は管理者が車を運転して、授業では司会をする。そういう役割になっていた。

講演できる状態か、佐久間以外は皆、悩んでいた。それで事業所から出発することができなかった。

佐久間は、他の3人のメンバーに向かって、今日は映画「猿の惑星」の障害者バージョンを話すといきまく。映画では人間が猿に支配されているように、障害者が支配されていることを話すのだという。

支配者とは、管理者という個人のことか、普通名詞としての専門家なのか、それとも猿なのか、わからないが、もっともなストーリーだ。しかしそれを精神科看護の授業においてどのように位置づけたらいいか、管理者は困っていた。さらに考える。

…話したい内容はあいまいでも、佐久間さんには、大学に行きたい、講演したいという思いがあるのは確かだ。それに一緒に行くメンバーはベストメンバー。ならば、彼に思いを断念させ、不満を膨らませながら一人ぼっちになるより、仲のよいメンバーと時間を過ごした方がいいかもしれない。彼らは佐久間さんをカバーできるだろうし…。

「佐久間さん! みんなといっしょに行こう。話す内容はその場で考えたらいいよ」

 

皆で7人乗りのレンタカーに乗り込む。

管理者が「どの席に乗る?」と佐久間に聞く。

いつもなら、道に詳しい佐久間が助手席に座ることになる。今日はそうはいかない。反発を感じている管理者の横には座りたくない。

「佐久間さんが決めた方がいいよ」。メンバーの関本も応援するように言った。

「うーん。関本さんが助手席に座った方がいいだろ。その方が菊谷さん(管理者)もいいだろうし」

それを聞いて、メンバーの紅一点、初子はとっとと後部席に乗り込む。

物静かな持田が真ん中の列、運転手の真後ろに乗り、いちばん最後に佐久間が乗り込む。

大学まで1時間あまりのドライブだ。車内は佐久間を気づかい、地味な雰囲気になる。

それでも誰かが「たまに外に出かけるのもいいな」という。反応はない。

しばらくして、また誰かが「景色、きれいだな」とポツリという。しかし途切れる。

佐久間は黙っている。はずまない雰囲気でも、気心知れた仲間だから気まずくはない。

静かにしながら、佐久間はどこか落ち着いてきた。

20分くらい走ったところで、管理者が佐久間に話しかけてみる。

「佐久間さん!リハビリテーション研究会に参加するため、昔、この道をよく二人で走ったね」

佐久間は、うーんと答えながら、あるエピソードを皆に聞かせたいのか、話し始めた。

研究会の打ち上げでどこかの中華料理店に入った。フカヒレスープが出たが、管理者はそれが苦手なので、佐久間が代わりに食べた。さらに彼はお代わりもした。なぜ管理者はフカヒレが苦手になったのか、その由来は…。

彼の声のトーンは、出発前のトゲトゲした部分がなくなり、丸みを帯びた。

管理者は運転しながら、彼が落ち着いたことを背中で感じた。

途中の道の駅でトイレ休憩。他のメンバーと談笑する佐久間はどんどん落ち着いていく。

病気の上昇気流はどこかでピークを越え、トンビのように旋回すると、ハンググライダーが下降するように、ゆっくり下がってくる。

大学に着き、教師と待ち合わせまでの時間つぶしで、近くの寺を15分ほど散策したのも良かった。あとは、スムースに進んだ。控え室で教師を交えて小一時間おしゃべりし、講演をし、佐久間はかつて病院で世話になった元看護師の教師とも再会する。その教師は、佐久間が来るというのでわざわざ講座に参加したのだ。うれしい再会だった。

帰路、ラーメンを食べて車を走らせた頃には、初夏の夕闇の中だった。

「佐久間さん! 越えたベー」と突然、関本が言った。病気の危機的状況をやり過ごしたね、ということだ。

佐久間はそれを受けて話した。

「うん。山田先生がいっぱい話を聞いてくれて、うれしかったし、先生になった高橋さんもいたから、あの人はもともと優しくて…」

それを聞いて管理者はビックリする。なにより、仲間といたから落ち着いたはずなのに、佐久間のなかでは、それは見えなかったということではないか。

他のメンバーは何も言わず、落ち着いた佐久間とあれこれおしゃべりをする。

山側の有料道路を通り、関本と初子はグループホームで降り、佐久間はアパートまで送られた。

車を降りた佐久間は、さっと振り返っただけで、にこやかにドアの中に入っていく。つまり、今日のところ、彼は「越えた」のだった。

 

 

私は、佐久間さんがなぜ落ち着いたのか、その“メカニズム”を考える。

佐久間さんは、山田先生と高橋先生が助けになったと感じた、そのように見えている。

ところが、関本さん、持田さん、初子さんの存在が大きいと思える。彼らがそばにいるだけで、(車内では仲間に囲まれるような位置にいた)どんどん落ち着いていった。このことが佐久間さんには見えない。本人に「見えるもの」があるが、大きな効果を生み出しているけれど「見えない」ものもある。このギャップをどのように説明すべきなのだろう。ここには考えるべき重要なものがある。

こんな喩えの説明はどうだろう。

カレイやタコ。カメレオンなどには保護色という防衛機能がある。佐久間さんへの仲間の働きかけを、その保護色が働く環境のように考えてみたい。周りに、落ち着いた仲間が寄り添う。すると苛立っていた本人が同調する。自分の色合い、模様を、仲間に合わせて変化させる。すると身体が落ち着く。変わった自分の模様を自分で見ることはできないように、本人にその落ち着きは「見えない」。

身体が落ち着いた本人の前に、その人の利益になるような人が現れる。今回は、それが山田先生と高橋先生だった。たくさん話し、懐かしみ、心が落ち着く。本人もそれをしっかり感じたので、頭で納得し、心もストント落ちていく。これは彼にも「見えた」。

この「見えない」という現象には大きい意味があるのではないか。ある一方の同調しようという意識から生まれ、本人によりよく働く「それ」は、仲間の相互関係のなかで大きく育つ。「見えない」から、語られにくいが、「それ」とは共同した主体性であるかのように、私には思える。

2015年10月31日

日常的なインスピレーション

Filed under: つぶやき — toshio @ 10:46 PM
しばらくぶりの通信

しばらくぶりの通信

今年はいくつかのいい本と出会った。

『プシコ ナウティカ--イタリア精神医療の人類学』(松島健、2014、世界思想社)もその一つだ。気に入った言葉を書き留めておいた。

 

「(病気を体験した人が言った…)君はそう欲した時にだけ書かなくちゃいけないと言ったんだ。だからそういう欲望が大事なんだ。日常的な喜びとインスピレーション…自分自身に語りかけてくる声に耳を傾けなくちゃいけない…これが、危機のときでも人生に対処する解決方法だと思うんだ」(p278)

誰かのために書く、何かをする、というのは大事ではない(まして誰かを貶めようとか、罠に陥れようというのでもない)。自分の内なる声に従って、書く、何かをするというのが大事なのだ。しかも内なる声は、喜びとインスピレーションであること。

なんとすばらしい言葉ではなかろうか。このようなイタリアの病気の人の言葉を掬い取ってきた松島さんという人はどのような人なのか。気になる。

 

「本物の仕事」とは、試行錯誤しながら直接的な経験をし自らの「効力感」を通じての経験を深化させ、行為の可能性を拡張しているような仕事である。(p399)

 障害者への福祉的就労などを念頭に置いた言葉である。しかし、普遍的な意味がある。そして深く共鳴する。

仕事をすることによって、自分の役割を自分で実感する。実感がそれまでの経験をより深め、新しい洞察を導き、自分の可能性が見えてくる…こういった連続したできごとを生み出すのが「本物の仕事」だ、といっている。

確かにそうだ。ここでいう仕事の本質とは「工夫の余地」と「向上の可能性」だ。社会的評価は二次的な要素だと言っている。これまた拍手をしたくなる言葉ではないか。

2015年9月29日

曲がり角

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:52 PM
そこを曲がると

そこを曲がると

それはずっと昔々、私が会った人たちのこと。

横暴な老人がいて、長く連れ添った妻は、夫の振る舞いにしじゅう困っていました。ところが相談にのったある保健師は、この横暴な夫に寄り添い、気持ちを受けとめることが、この夫婦の問題の解決につながると信じていたので、妻の悩みはより深くなりました。

夫は、飲酒しては妻にあたり、記憶は混乱し、いきあたりばったりの感情に身を任せる日々。彼はなんらかのメンタルヘルスの課題をかかえたのです。ところが保健師は妻の対応に問題があると思っていました。私は保健師の思い入れに首をかしげていました。

妻は時おり家出し、子どもの家に身を寄せるのですが、長居もできず、夫の機嫌を推しはかりながら、家に戻るといういったりきたりでした。

妻が不在になると、歩けない夫は通院できません。保健師は夫を背負ってタクシーに乗せて、付き添いました。

いまで言えば、保健師は徹底的な当事者中心主義です。私は情に流されていただけで、何の論理もありません。ただ妻を哀れんでいたきがします。夫を怖れて家に入れない本当に小柄な妻に付き添って、私は曲がり角の先にある自宅まで送ります。私がいれば、夫は妻にはあたりません。

保健師は夫を、私は妻をそれぞれ応援していたのです。あれから、どうなったのか。曲がり角を見たとたんに思い出したずっと昔のことです。

入院以外の地域精神保健活動の支援活動がほとんどなかった時代でした。

 

■対話

地域精神保健の活動において、現在、フィンランドのオープンダイアローグが注目されています。地域で暮らしている人がメンタル上の危機にあったとき、複数の専門家が相談者の自宅を訪問し、対話し、危機を乗り切る援助をするというのです。(『オープンダイアローグとは何か』、斎藤環著・訳、医学書院、2015年)

 

対話の目的とは、ただひとつの記述や説明を見つけ出すことではありません。対話とは相互的な行為です。精神療法の一形態として対話に注目することは、セラピストの位置づけを変えてしまうでしょう。なぜならセラピストは、もはや外部から治療的に介入する立場ではなく、発話と応答の相互的プロセスにおける一参加者として振舞うことになるからです。(p159)

もし、あのとき、あのご夫婦と保健師、私などでオープンダイアローグ(対話)ができたら、ずいぶん違っていたと思います。私たちは、外部から治療的に介入しているわけではなく、オープンダイアローグのように相互的でしたが、オープンダイアローグのような秩序はなかったのです。もしぼくたちに秩序(思考、システム、思想)があったら…。

オープンダイアローグは実に魅力的なアプローチです。

 

■地域とは

地域精神保健ということを考えるとき、『プシコ ナウティカ――イタリア精神医療の人類学』(松嶋健、世界思想社、2014)も刺激的です。

 

〈地域〉精神保健とは、単に病院の外でサービスを提供することを意味しているのではない。〈地域〉とは単に病院の外の空間を指しているわけではないのだ。それは、人々の生と関係性が縫いこまれていくことで生み出される、生態学的なテリトリーである。そこにはくつろぎがあり遊びのある〈agio〉(注:アージョ、イタリア語で「ゆとり」「のんびり」などの意)の場所であり、利用者たちの生がそこに編みこまれていくことで〈主体性〉を具体的に行使できるようになっていく集合的な環境である。だからこそ精神保健サービスのオペラトーレ(スタッフ)たちは、利用者と〈地域〉の両方に関りながら仕事をする。(p381)

そうだな。あの頃のぼくたちは、精一杯地域に働きかけることで、生態学的なテリトリーに縫いこまれていたけど、〈agio〉をめざしてはいませんでした。〈agio〉を考えることができなかったのです。目の前の場面を越える視点をもっていませんでした。

あれから、何十年。ぼくたちの前には、いくつもの洗練された思想と実践があります。それは多くの人の苦労と悩みと喜びによってつくられた手作りの思考を、ぼくたちが受け取り、現場で用いろうとするか、です。

 

2015年8月19日

書き続ける

Filed under: つぶやき — toshio @ 10:24 AM
おーい。

おーい。

『絶歌』(著者元少年A、太田出版、2015年)を読みました。この本には重いテーマがたくさんあります。何度か読んでは、思いをめぐらし、頁をめくりなおしてまた考えました。考え尽くしたというわけではないのですが、著者のAに返すつもりで、とりあえず読後感を書こうと思います。

Aは、自分のことを「人間であることを捨てきれなかった未熟な一殺人者」(「絶歌」p33)と書いています。冷徹なモンスターなどではない、人間としての自分がいる。人間であるから、ここに苦悩がある、ということなのです。

しかし、苦悩こそ、彼と私たちの相互理解の源泉です。これは、彼(と私たち)の前に立ちはだかっているとてつもなく大きな課題をこえるための大切な手がかりだと思っています。

その一方、Aは、自己の性格的偏り、兄弟や同級生への暴力、秘密のできごと、それが年々積み重なっていくさまを語ります。ある意味、「異常性」を吐露します。これらを語らずして、彼の“人間”性を伝えることができないからでしょうが、淡々とした第三者的な語り口に、読者の多くはうんざりしてしまいました。この本の“内容に関する批判”の大半はここに集中しました。

その問題はひとまず脇に置いておくとして、ともかく、彼は自分の中の「正常」と「異常」の狭間を生きなければなりません。これは現実です。そして、酒鬼薔薇聖斗として究極的な事件の重みを背負い、社会の好奇の目から追われ続けるという「異様」な道のりも、厳然とした現実です(社会的排除につながるパパラッチ的行為に関して、多くの人は冷淡すぎると私は思っているのですが…)。

 

■逃亡者

殺人という不可逆的な事件を引き起こしたAの社会的責任は限りなく重いものです。

しかし、事件が引き起こした社会的影響の大きさゆえ、自己の責任を語ることはとうてい困難です。要請される社会的責任の重さに振りきれて、あがったままのシーソーのように、自己の責任は、要請されるものと均衡を保つことができません。自己責任は、空をバタつかせるだけです。

医療少年院を退所して11年、彼はマスコミの取材を怖れて、居所を転々しています。刑期を終えたのですが、彼は一般社会で無期逃亡者として過ごしています。たいへん過酷なことです。(逃亡は両親や兄弟などを守るためでもあると思います)

彼は14歳の時の犯行声明で「今でも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボク」と宣言しましたが、それは酒鬼薔薇聖斗という空想の犯罪者のことでした。18年後の今、彼自身がこの世のなかで実写版の「透明な存在」を演じ続けています。なんという皮肉でしょう。

 

■絶歌の出版は

過去と現在がまじりあうエンドレスの世界。これはまさに“地獄絵”です(むろん被害者家族も彼の家族も同じような状況でしょう…)。この本を書こうが書くまいが、彼自身にとっての“地獄絵”は変わらない。それなら非難の大合唱になろうとも本を書こう、このように彼は決断したのかもしれません。(しかし被害者家族、加害者家族は彼が書いたことによって、それぞれの“地獄”の様相を変えられてしまったに違いありません。)

この本への非難の多くは、“少年法で守られて、短期間で自由になった人間が、犯した事件をネタに金儲けをしようとしている”といった外形的なことに関するものです。

ところが、彼から見ればこの立場はまったく違うでしょう。“14歳の時に死刑になると思っていたのが、そうではなかった。失うものなどないと思っていたのに、徐々に事件を振り返り、人の情け、世の理にふれて学んだのは、(逃亡者には)罪を背負って生きる場所がない”というものだったのです。

まさに、「地獄の真の怖さはいくら叫んでも鬼に人間の声は聞こえない」ことです。彼は生きていくほどに、追いつめられたのです。

ですから、この本は、仏陀がたらした「蜘蛛の糸」の物語の逆で、地獄から蜘蛛の糸を立ち上らせようとした試みのように思えます。(この試みがいいか悪いか、成功するかしないかはまた別の話として置いておかなければなりませんが)。彼には、生きるにせよ死ぬにせよ、これしか方法が見えなかったのではないかと私は思うのです。

 

■発達障害の固着

先日、ウェッブ上の「産経スポーツ」に『臨床心理士が「絶歌」を読み解く――猛毒か、ワクチンか』という記事が載りました。

(http://www.sankei.com/affairs/news/150711/afr1507110008-n1.html 2015年7月11日閲覧)

臨床心理士の長谷川博一という人の論文でした。

長谷川は、専門家は性的サディズム(審判決定文)とかサイコパス(香山他)とかとAのことを言うが、それは一種の思考停止ではないかと批判しています。彼の主張は、病名をつけて終わりではなく、①発達障害、②抑圧的な成育歴、③思春期前(8歳から12歳)に犯罪につながる事柄との遭遇(固定的な執着=固着)、の三つが重なった事例としてとらえ、①と②への治療的なアプローチが必要であるというのです。

長谷川は次のように述べます。

「『絶歌』は、因習的に性的サディズムとして片づけられてきた精神病理を、新たな知見で検証し直す資料としては価値のあるもの」であり、これを治療的に用いれば“ワクチン”になるし、ゲテモノとして読まれるなら、次世代を刺激し、新たな事件の引き金となる“猛毒”になる、というのです。

そして、Aが「他人の心を想い、そして自分をも慈しみ、謝罪の気持ちと向き合いながら生かされた命を精一杯に生きられるよう」、これからも専門的なサポートを受けるべきだと結論しています。

Aの「固着」とは、頼りにしていた祖母が亡くなったあと、祖母が使用していた電気按摩器で精通を経験したというできごとのことです。Aは「僕のなかで性と死が罪悪感という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった」(p49)と述べています。長谷川がこの本の「資料性」を述べるのは、いままでの資料にはなかったこの告白を指摘しているのです。

 

■自分でも発達障害を匂わす

でも、Aはこの議論をどのように受け止めるのでしょう。

長谷川は、(Aが望んできたような)一般社会での暮らしではなく、(厳しい批判者が語る)極めて限定された暮らしでもない、第三の道として保護されたサポート空間を提言したと言えます。しかし見方を変えれば、専門家による「ゲットー」(隔離された地域)とも受け取れるかもしれません。

たぶんAはこの提言に同意しないでしょう。彼は「『精神科医』という肩書を持つ人に対しては、ことさら冷静に、感情や表情を消して振る舞うのが習い性」(同p210)であると言っているように、精神医学的、臨床心理学的なアプローチに対して、予想しては、抵抗してきたように見受けられるからです。

「優れた精神分析医は狩猟者(ハンター)だ。患者の精神のジャングルの奥深くに逃げ込んだ本性(ケモノ)の足跡を辿り、逃げ道を先回りし、さまざまな言葉のトラップを用いて、根気強く、注意深く、じわりじわりと追いつめていく」(同p131)と述べる彼です。

隔離された環境の中で体験したことを材料に、ここまで述べる彼は、今度は、追いつめられないよう、逆に彼の側から、ある種の罠を、この本に仕掛けているかもしれません。

Aは、自身を発達障害、アスペルガー症候群か、それに近い状態であると理解しているようです。彼は漫画家である古谷実の作品のあるキャラクターを取り上げ、そのキャラクターは大阪姉妹刺殺事件の犯人であるアスペルガー症候群の山地悠紀夫と自分を合体させたような性格だと述べています(同p230)。キャラクターはアスペルガー症候群的な快楽殺人鬼です。Aは、キャラクターにも山地にも、「アスペルガー症候群」という言葉を共通項にしてある親近感をおぼえているようです。

Aは、山地は「(アスペルガーという)魚が陸で生きるため」(同p235)に必死で努力してきたのではないか、といっていますが、それは、現在までの自分の歩みのことでもあるのでしょう。

彼は自分自身の性向について次のように述べます。

「他人とコミュニケーションを取ることが極度に苦手」(同p83)。「いっしょに茶でも飲もぉや」と施設長に言われたとき、「いいです。いま喉乾いていません」と文字通りで答えてしまった(同p178)。「僕が僕でいられるのは、とてもとても狭い範囲」でしかなく(同p179)、「ともかく“変化”を嫌う」(同p226)。

彼は、発達障害であるような自画像を描きます。しかし、読み手がそう読むだろうと想定の上での記述でしょう。

 

■母は憎まない

長谷川のいう、発達障害の固着が成立する①、②、③という要件のうち、Aはこの本で、①と③を認めますが、ところが②は認めていません。「母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった」(同p150)と述べています。マスコミや裁判の過程で「いつしか僕自身、『母親を悪く思わなくてはならない』と考えるようになってしまった」(同p152)ともいいます。

まるで、長谷川の意見が出てくることを前もって見越して、否定していたかのようです。しかし、そうではなく、彼はこの本の試みにおいて、母親を責めても意味がないと思っているだけでしょう。

彼はこの本の最後に「被害者のご家族の皆様に」という文章をのせました。

ここのところで、「『生きたい』と願うようになって初めて…命の重みを皮膚感覚で理解し始めました」という彼の思いを語っています。これが新聞の議論やネットでは「自己中心的で都合のいい表現」と厳しく非難されましたが、まぎれもなく彼の本心=意図だと思います。

「生きたいと願う」観点をもちながら、過去の幼少時代の母を責めれば、未来に向かって、前を向きながら、首をねじって過去を振り返るかのようです。これでは説得力がありません。

長谷川とAとは議論がすれ違っているだけでなく、もともと長谷川の議論は、臨床心理士として前思春期の少年へのアプローチを、Aの事例を踏まえて論理立てるためにこの本を取り上げたのであって、30歳を過ぎた現在のAへのアプローチについてはそれほど現実的ではなかったかもしれません。

ただ、②の抑圧的な成育歴については、Aが認めるか認めないかとは関係なく、あとで、別の角度から取り上げることにします。

 

■眼について

ところで、この本を読んでいて不思議な気分にさせられるのは私だけではないと思います。多くの人から(悪い意味で)文学的とか、技巧的とか指摘されています。性的、粘膜的なメタファーもたくさんあります。

私も過剰な「技巧」を感じますが、それとは異なる、また別の質の「眼」についての記述が気になっています。

この本では「眼」についてふれた箇所がたくさんあるのですが、ほとんど場合、「モノ」としての「眼」を取り上げます。その反面「デキゴト」としての「目」についてはほとんどふれていません。これが不思議です。アイ・コンタクトが苦手(?)な彼のクセ、直観像素質者(審判決定文)としての彼の傾向(?)によるものかもしれませんが、これが私の興味を引きました。

たとえば、三歳のときの自分の写真を指して、「ガラス玉を思わせる無機質な光沢を帯びたその眼」(同p38)とAは表現しました。珍しい表現ではないでしょうか。

自分の幼いころの写真を誰かに見せたら、多くの人は「かわいい目をしているでしょう」と同意を求めたり、「小さなときから目が小さくてね」などと言い訳じみた話をするかもしれません。それは、かわいいと言われた幼い時の思い出、目が小さくて内気だった性格、そしてそれらが関係する家族や地域の歴史を語っているということです。

ところが、「光沢を帯びた眼」は、眼球そのものについてのみ触れているのです。誰とも対話をしていません。Aのような表現はまれだと思うのです。

眼球は表情と結びき、表情は感情や意識とつながり、意識は人間関係や状況にシンクロするのです。眼球はそのような人間のコミュニケーションの奥行きに続いていくのです。ところが彼は奥には少しも入ろうとせず、表面でサッと折り返してしまいます。彼の生理的な傾向がそのようにさせているだけでなく、意識的にもそうしているのでしょう。

少年院を出てから世話になったある40代の観察官について、Aは次のように表現します。「色黒で年相応に贅肉がつき人懐っこい真ん丸な眼をしていた」(同p198)。考えられる通常の表現方法であれば、“色黒で、たっぷりした体格の○○は、真ん丸な目でやさしく見守ってくれた”などとなりそうなのですが、そうはなりません。

彼が世話になった篤志家の家を訪ねる初老の更生者は「顔は日に焼け、鼻が大きく、濃く茂った眉の下の小さな眼は、素朴で、悲しげな印象があった」(同p212)と表現しています。“眉は濃く、素朴だが悲しげな目をしていた”ではありません。

眼球の表面からその奥に、その人の感情や意識の領域には、入られない/入らないAなのですが、その性癖がもっとも極端な形で現れたのが淳君(被害者)でした。

――淳君の無垢な瞳が愛おしかった。でも同時に、その綺麗な瞳に映り込む汚らわしい自分が、殺したいほど憎かった。淳君の姿に反射する自分自身への憎しみと恐怖。僕は、淳君に映る自分を殺したかったのではないかと思う。真っ白な淳君の中に、僕は“黒い自分”を投影していた。――(同p126)

感情の交流が苦手なAは、愛おしい淳君に眼差しを向けても、眼球の表面で反射し、自分の姿を映し出してしまいます。それで、自分が憎かったのかもしれません。あるいは、自分の思いを受け入れてくれない/自分の思いを拒む、淳君の「眼」が憎かったのかもしれません。

(ここでの記述が「モノ」としての「眼」ではなく、奥行きに向かって開いた「瞳」と表記しているのは、それだけ切実なものがあったということでしょう。)

しかし、やがてAは、実は、淳君の眼差しを受け入れない自分の「壁」を自分で憎んでいたことに気づくのです。「眼」と感情の間に、「壁」があったのです。

 

■感情を阻む「壁」

見る/見られる、受け入れる/受け入れられる、思う/思われる、などの相互関係は、自分/他者関係という合わせ鏡の関係のなかで現れるのですが、Aは「相互関係」を遮断したところで精神構造を成立させていました。相互関係をシャットアウトする「壁」をつくり、「壁」の内側に閉じこもっていたのです。「壁」は防波堤であり、内に憎しみを充填し、圧力を高めるためのものでもあったのでしょう。

本の最後の方で、「眼」ではなく「眼差し」として表現する箇所があります。「眼差し」は「デキゴト」です。他者が感情をAに対して振り向ける。それを受け取るAの「壁」が壁として機能しないとき、Aの深い領域にダイレクトに届いてしまう。その時、初めて「眼差し」を認識するのかもしれません。

彼の「壁」というシールドが破られたエピソードは3年ほど前のことのようです。働いていた会社の先輩が、ある時自宅に夕食を誘ってくれた。小学校にあがったばかりの先輩の娘さんがAに語りかけるうちに、その娘さんと事件の被害者が重なり、いたたまれなくなる場面です。

――無邪気に、無防備に、ぼくに微笑みかけるその子の眼差しが、その優しい眼差しが、かつて自分が手にかけた幼い被害者の眼差しに重なって見えた。道案内を頼んだ僕に、親切に応じた彩花さん(注:死亡した第1被害者)。最後の最後まで僕に向けられていた、あの哀願するような眼差し。「亀を見に行こう」という僕の言葉を信じ…僕に付いてきた淳君(注:死亡した第2被害者)の、あの無垢な眼差し――(同p273)

それに続いて次のように述べています。「自宅に帰るバスの中で、僕はどういうわけか、涙が止まらなかった。社会に出てから…この時ほど、辛く苦しい気持ちになったことはない」と(同p274)。

 

■顔・眼差しを望んだ

かつて社会学者の大澤真幸はAの事件についてこう述べました。

――通常他者の顔を見ながら、その他者を殺すことは、きわめて困難だ…哲学者エマニュエル・レヴィナスが、他者の顔は「汝、殺すなかれ」という命令を発すると述べている…するとAの犯罪は反レヴィナス的な殺人なのか?(p61)……Aは、(顔=深淵によって)覗き見られる人、覗き見られていることを実感したい人なのだ(p64)――(『不可能性の時代』、岩波新書、2008年)

Aは壁の中の自分の感情を覗き込むために、被害者の眼差しの助けが必要だったのです。あるいは、壁の奥にいるA´が覗き込まれることを望んだのかもしれません。

いずれにしても被害者の「眼差し」を必要としていたのかもしれないという恐ろしい示唆を、私たちは受け入れなければならないということです。だからこそ、「壁」の意味を探りあてなければならないと思うのです。

「壁」によって眼差しを拒むことと、その内側に秘密が生まれることとは同時並行です。すると、この「秘密」について考えることになります。

 

■秘密のシェルター

Aはこのように述べます。

「人は秘密を持つことで生きていけるのではないだろうか。それは自分の内側に設けるシェルターのようなもので、どんなに追い詰められようと、その中に逃げ込んでしまえば安心できる。体の自由を奪われようと、誰に侵されることのない秘密の中では、人は自由に駆け回ることができる」(同p122)。

誰でも当然そうなるはずといった流れの記述ですが、はたしてそうでしょうか。秘密=シェルター=誰にも侵されない=自由、という結びつきが、ゆるく、部分的に、ある時期だけであれば、それはある程度生じます。しかしAのように、しっかり結びついて、「自由に駆け回」るまで成長し、それゆえ生きていけると思えるまで自己世界が自律してしまうのはまれではないでしょうか。

 

『鑑定人と顔のない依頼人』(2013)というイタリア映画がありました。主人公である美術鑑定士のヴァージル(ジェフリー・ラッシュ)は、冷徹で人間(女性)嫌い。独身の彼のひそやかな楽しみは、自分が仕切るオークションで不正に集めた、女性の肖像画(多分、名画)を眺めること。絵画は、自宅の秘密の部屋の壁一面を飾り、その真ん中に置いた椅子に座り、眺めるのが至福の時間。その彼に、不思議な依頼が…とストーリーはおしゃれに展開していきます。

鑑定士のヴァージルの世界は相当変わっていて、Aのいう「秘密のシェルター」ともよく似ています。しかし、彼は、強欲な世間と生身の女性に背を向けて、芸術品の女性の肖像画をめでるためのものであり、「シェルター(避難空間)」とは違います。

世俗を反転・純化させているのですから、ラボラトリー(研究空間)のようです。秘密=ラボラトリー=一人で集中する=至福、という組み合わせになります。それに、「壁」は、シェルターのように外部の攻撃から守るためのものではなく、内部に存在している「美」を飾るための背景なのです。

鑑定士とAを比べればはっきりするのですが、Aの「秘密のシェルター」の根幹は、「外部に存在している攻撃」「自分を不自由に縛りつける力」からの逃避にあります。防空壕は、外部からの攻撃から逃れるため、幾つもつくり、一つの壕が破壊されれば、他の豪に移動できるよう通路を作ります。

鑑定士の「秘密のラボラトリー」は幾つもつくる必要はありません。自分が至福を感じればいいのでひとつで十分です。しかし「秘密のシェルター」は数を増殖させ、堅固にし、地下深度を増すのです。その増殖の延長に、「事件」を起す素材が重なっていったと思います。

 

■罪の入れ子構造

リーマンショック後の2009年6月から9月、Aは半失業状態になりました。その時のことをこのように書いています。

「まさに流転の日々だった。様々な仕事を転々としながら根無し草のような生活を送った。この時期の記憶は断片的にしか残っていない。おそらくストレス性の健忘ではないかと思う。ぼくは過度にストレスがかかるとしばしば記憶がトンでしまうことがある」(同p243)。


この記憶が飛んでしまうということも「秘密のシェルター」の業ではないか、と思います。誰しも嫌なことは忘れようとします。しかし、数年前のことで、しかも20代半ばの3ヵ月間のこと。大災害があったなどということでもないが、記憶がほとんどないというのは、「秘密のシェルター」が大きく作用しているのだと思います。

Aはこうも述べます。「罪悪とはマトリョーシカ人形のようなもの。どんな大きな罪も、その下にひとまわり小さな罪が隠され…それが幾重にも重なった「入れ子構造」になっている」と(同p46)。小さな罪が起き、するとそれを隠すような大きな罪が生まれるというのです。

「罪」の相棒は「秘密」です。ですから「秘密のシェルター」も、罪悪と同様に「入れ子」になっているのでしょう。本人のいろいろな記憶は分割され、あっちのシェルター、こっちのシェルターにしまわれ、それを大きなシェルターでしっかり囲い、通路で結び、全体としてネットワークができている。そのもっとも古い基底にあるのが「母との関係」ではないかと、私は思うのです。

 

■健忘

「母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった」(同p150)とAが述べたと前に書きました。このことを、「秘密のシェルター」を下敷きにして、もう一度取り上げたいと思います。

私は、母親を憎んだ事実はあった、だが「記憶」を「秘密のシェルター」の中にしまいこんでしまったので思い出せないのではないか、と考えています。審判の決定文は、「鑑定人は、1歳までの母子一体の関係の時期が少年に最低限の満足を与えていなかった疑いがあると言う」(文芸春秋2015年5月号p319)といった鑑定意見を取り上げています。この鑑定は、本人や家族との面接、幼稚園や学校教師からの聴取、本人の作文などの資料収集にもとづいたものです。母親との関係の問題は、予断やマスコミの扇動ではなく、実際にあったのだと思います。

Aは、この本で母との関係不全については否定している。ところが次のようにも述べます。

「僕には小学校に上がる前の記憶がほとんどない。はっきり残っているのは、まだ生まれて間もない頃に、祖母の背に負ぶわれ、安心しきって眼を瞑り、祖母の暖(ママ)かな背中に全身を委ねているという記憶」である(同36)。小学校入学以前、母に関する記憶は少ない、しかし祖母については「はっきり残っている」といいます。明言はしないけど、母との関係の悪さを匂わせます。

小学校入学前というのは「小学校に入学する時に、少年の母方祖母が暮らしていた現住所に家族全員で引っ越した」(審判決定文、文芸春秋p320)のですから、祖母のいない家族の時代だったのです。祖母と暮らす前の記憶はない、暮らすようになってから記憶が始まった、ということです。

小学校に入学する以前の記憶は、暮らしていた家や母のことは、別のところに収納された。そのように考えても間違いないと思うのです。

小学校3年生の時、目の焦点が定まらないなど様子がおかしくなり医師の診断を受けたことがありました。その際「お母さんの姿が見えなくなった。以前、住んでいた家の台所が見える」と言っていたそうです(審判決定文文芸春秋p322)。母との葛藤、記憶の脱落、視線への恐怖、心理的シェルターのセットが、この頃から形づくられていったのではないでしょうか。

 

“重い”ことを続ける

“重い”ことを続ける

■『絶歌』の波紋

この『絶歌』に対しては、たいへんな非難が殺到しています。私はいろいろな意見を理解しようとしては、そのたび気がめいりました。被害者と加害者、あるいは事件に関係した人々以外の人たちの厳しい批判、非難に対して、憂鬱さを感じていました。

この事件はいつしか癒されなければなりません。しかしゴールはありません。ゴールはないけどそれをめざさなければなりません。被害者は被害者として、加害者(家族)は加害者として、それぞれ癒される方向に進むための努力が払われなければならないのです。社会全体として「傷」を修復していく、そのための社会であるべきです。事件当事者でも、関係者でもないその他の多くの人も、その営みに参加していくのです。

一般の人が被害者の立場に立ってこの問題を考えることはありますが、それは、被害者の立場にタダ乗りして、加害者を非難し、排除することではありません。被害者の癒しのプロセスに参加することが、被害者の立場に立つことです。

加害者を擁護したいという立場の人もいます。でも、それは加害者が癒される、回復するプロセスに参加するということです。事件を肯定することではありません。

対立する被害、加害の関係を、事件を忘却することなく、未来に向けて修復させるよう努力していく、その力となるような思考を、いま、生み出さなければならないと思っていました。

そのように考えていたところに、東奥日報8月7日に、文芸評論家・川村湊の論評が載り、やや救われる思いがしました。彼は、日本ペンクラブの獄中作家・人権委員会に属している人ですが、永山則夫とAを比較論評し、次のようにまとめました。

「私は、彼が「書き続ける」ことを支援したい。それは単なる謝罪や反省よりずっと“重い”のである」と。

Aも被害者もこの社会で、未来に向かって歩まなければならないのですから、このような一人一人の行動宣言が必要なのだろうと思うのです。

 

この文に私の意見を付け加えさせてもらえるなら、次のように言いたいものです。 

Aは書き続けることで、心の秘密のシェルターにひそむ、母を憎み、母を恐れて台所に逃げ込んだ幼いAを救出する。しかし、救出することで、かつて、その子の救出に失敗した事件を思い出すかもしれない。だから救出は「パンドラの箱」を開けてしまう可能性がある。

あなたの前にある高く聳え立った壁を乗り越えることは、治療を受けるより厳しいし、リスクは高い。しかし、いまあなたはつるんとした壁の前に立ってしまったのだ。この本を書くことによって。

2015年7月27日

こんには。実は・・・

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風と 空と

風と 空と

陽平:神戸連続児童殺傷事件の元少年Aが書いた本、『絶歌』のことを聞いたことがあるだろ?

風子:すごいバッシングだそうね。悲惨な事件だし、私は、あまりかかわりたくないという気分が先立つわ。今回の出版は、被害者家族の気持ちを踏みにじったということが大きいのでしょう?

陽平:そうなんだ。この出版に関しての、主な関係者は、元少年A、被害者家族、出版関係者となるけど、その三者について、被害者家族の思いを軸にした批判が多い。元少年Aや出版関係者に対して厳しいね。

風子:そうらしいわね。 でも、そういうふうにこの事件の関係者というふうに広げて考えると、元少年Aの家族という立場もあるわね。

陽平:そうだよ。それに、元少年Aの更生にかかわった専門家、篤志家という立場もあるし、それから一般市民、つまりこれから彼とかかわる可能性のある人々がいるんだ。

風子:元少年の家族は、バッシングの被害者ともいえるわね。かかわった専門家、篤志家はどんな思いかしら…。

陽平:う~ん。彼の審判を担当した元判事、井垣康弘さんは、保護観察期間が終わった2004年12月以降も、専門家や篤志家のサポートを受けて、何らかの継続的な贖罪行動を重ねられたらと残念がっているね(文芸春秋,8月号)。

Aは、保護観察期間が終わった後は、身元が分からないようにまるで「逃亡者」のように暮らしてきているんだ。だから、「100メートルで言えば、Aは、最初の20メートルで転んでまた立ちあがって走ろうとしている段階です。社会がAを見守り、贖罪行動をさせられるかどうか――私たちは経験したことのない闘いに挑んでいるのです」(p147)と論文を結んでいるんだ。

風子:「経験したことのない闘い」ねぇ…。

陽平:そう! 立ちあがって走ろうとしているAの、それが今なんだ。被害者遺族への配慮を欠いた本を出してしまった今なんだ、というのが井垣さんの主張なんだ。つまり、なるべく多くの人が立場を越えて、80メートル先を見なければならないというんだ。

風子:そうね、いまはむしろ、20メートルの地点から戻って、スタート地点に目を向けている人が多いかも。「被害者」の立場に立つ、その視点に立つといっても、遺族も加害者家族も、事件から18年たって、それぞれの苦難の20メートルを歩んできたわけだから、スタート地点に戻るような論調が圧倒してしまったら、それぞれの18年の努力を否定しかねないわね。

陽平:バッシングの要因の大きなものとして、事件に至り医療少年院に入所するところまでを書いている本の前半部分の彼の表現を、どう受け止めるか、それでまったく違ってしまっているようなんだ。

 

いくつかの批判

立花隆:「あの本に対する私の評価はゼロである…変に文学づいた訳のわからない文章があまりにも多い…一読ナンジャコレハとあきれる文章が多く、この少年は病気が治っていないのでは(?)と思った」(文芸春秋8月号)

奥野修司(ノンフィクション作家):「懺悔録のように見せかけて、実は、自分自身の悪いところを避けて通った身勝手な“私小説”にすぎない…(前半部分には)気味の悪いメタファーやアナロジーを使った文章が随所に登場する」(文芸春秋8月号)

諸澤英道(常磐大学教授)「内容的にも、被害者に対して謝罪をして理解してもらうという努力が感じられません。文学的な脚色が多く、事件と向き合っていくという真摯(しんし)さが伝わってこない」朝日新聞デジタル2015年6月22日20時49分

 

風子:そうね。松本麗華(松本智津夫死刑囚の三女)は新聞で視野の広い論評をしていたけど、前半部分の文体については「技巧的な表現が多用され、第三者が書いた小説のようだ」(東奥日報2015年7月17日)と批判していたわね。

陽平:18年前の猟奇的な事件と、今回の文学的・第三者的な表現に、ギャップがあると多くの人が感じているんだ。14歳の子どもが犯してしまった究極の罪を、18年後の彼がどのように贖罪するのか、それはむずかしいことだと思う。誰が加害者であっても、多くの人が納得するような贖罪はできるものではないだろう。そういう面がある。

しかし、Aの表現には、彼特有の「世界」が含まれていて、それがギャップを広げていると思う。

風子:反省していないとかと思われるような表現の手法の問題だけではない、彼とのギャップがあるということ?

陽平:精神科医の香山リカは、Aにはサイコパスの傾向があって、それが事件の大きな要因であり、この本も「なぜこのような書き方なのか」を、その面から補足することが必要だったと言っている(月刊『創』8月号)。そうとも言えるかもしれないなあ。

風子:サイコパス!?

陽平:香山リカはこういっているよ。サイコパスの特徴であるのは、「『恐怖』や『痛み』を感知するのが苦手で、抽象的な概念や暗喩をなかなか理解できない…やり方が間違っているときにもそれを修正することができず、『偏狭なまでに集中し、全力で前に進んでいく傾向』がある…これらの特徴はすべて元少年Aの手記からも見てとれる」(p78)と。だから、本の中に精神医療の専門家の解説が必要だったのではないか、もしそれが可能であったら、彼の病理を踏まえて、彼の更生程度を評価できたはずと主張しているんだ。

風子:本人とバッシングのあいだに精神科医が立つ、ということなのね。この本のつくりをそうすべきかどうか、元判事井垣康弘さんの言うとおり「経験したことのない闘い」であるなら、いろいろな立場の人がこの問題にかかわらなければならないわね。

陽平:そうなんだ。ぼくはこんなことを考えるんだ…。もし知り合いがいて、その人から「実はぼくはAなんだ。『絶歌』を読んでくれました? どう思いますか。もしよかったら感想を聞かせてください」といわれたら、本人に向ってどのように言うだろうか、というシチュエーションを…想像するんだ。

アパートの隣かなんかに住んでいて、僕が落とした財布を拾ってくれたかなんかで、顔見知りになって、ちょっとしたお礼をしたりして、親しくなったとする。ずいぶん静かな青年だなと思いつつ、なんかわけでもあるんだろうなと気にする関係がしばらく続いた。

そんな折に、突然、彼から打ち分けられた。「どうも、週刊誌に、この私の住まいが感づかれたらしいので、今晩、この町を出て行くことにしました。あなたにだけは、直接、本の感想を聞かせてほしいと思ったので…」

顔見知りになった、でも相手は「サイコパス」かもしれない。本心のところはわからない。きちんと定時にアパートに帰ってきて、顔を合わせれば、挨拶する。伏目がちに、視線はあっていないけど、それなりの精一杯さは伝わってくるつもりなんだ。

それは、だまされるということなのかもしれないが、彼が、再スタートをしたい、つまり立ち上がってあと80メートル走りたいと思っていることは信じるだろうと思う。そんなことを考えるんだ…。

風子:そうねぇ…。

 

 

視ているだけで眼底が痙攣するような、白銀にギラめく立体的な太陽が、その真下を遊ぐ雲の魚群を陽光の銛で串刺しにし、逆光で黒く翳った森のそこかしこに、幾筋もの光の梯子が降りていた。(p30)

これは、彼が事件当時お気に入りだった場所のひとつ、入角ノ池の風景の描写だ。「眼底が痙攣」「串刺し」といった肉体的ヒフ感覚と、「ギラめく立体的な太陽」「陽光の銛」「光の梯子」といった明暗的な視覚と合体させた彼の特徴的な描写が、他の何箇所かにも見られる。

彼は、子宮回帰願望があったという。この池の淵で、エンドレスリピートで聞いたのが、ユーミンの『砂の惑星』だったという。

「僕にとって“池”は“母体の象徴”であり、ユーミンの「砂の惑星」は胎児の頃に聴いた母親の心音だった」(p32)。

本の題名“絶歌”とは、かつて「心音」のように響いたその歌が絶える、尽きるという意味なのだろう。32歳のいま、彼は、贖罪のしようがないと思われるような重大な過去を生み出した、彼の空想的でゆがんだ世界の「子宮」をあとにしたいと思っているのだ。すくなくとも彼はそう表現したのだった。

2015年6月21日

神谷美恵子のこと

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:38 PM
下町の職人

下町の職人

■長島愛生園のこと

昨年は『生きがいについて』(1965年、みすず書房)の著者、神谷美恵子の生誕100年であった(1914-1979。65歳で没)。

ハンセン病の療養所・長島愛生園(岡山)で精神科医として働いた。ミッシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』(訳出1969年)の訳者としても高名である。

『生きがいについて』は、ぼくも学生の頃に読んだ。コンパクトな装丁が格調ある文章とマッチして、社会科学系では、長い間、若い人の必読図書だった。

ずいぶん後に(たぶん90年代)、神谷美恵子のエッセイを読んだのだが、どこかにこのような光景を描いた文章があった。

 

――ハンセン病者を強制隔離していた長島愛生園。ある時、患者が亡くなる。死亡した患者は所長の光田健輔医師(1976-1964)が解剖を行うことになっていた。神谷はその解剖に立ち会う。医学的な発展に寄与るための解剖であり、光田は一心に取り組む。

時間が経過。今日のうちに荼毘にふさねばならず、解剖が終わるのを待っている入園者たち(雑役夫)が、やや落ちかなくなる。日が暮れて、火葬が間に合わなくなることを恐れていた。

やがて光田は仕事が終わったことを告げると、入園者たちがいそいそと遺体を引き取っていく。解剖を終え、部屋から出てきた光田に夕日が当たり、額に汗が光った…――

 

『生きがいについて』以外は買って読んだ覚えはないから、どこかの図書館で読んだ本なのだろう。どこだったか、いつだったか、本の題名は? なぜ読んだのか?…もう記憶はない。

この文章は、いつの時期に書かれたのだろう。神谷が29歳で長島愛生園にいった時のことか、40代になって療養所の精神科医として赴任した時か? 読んだとき、軽い違和感があった。医師と病者の関係が、江戸時代の侍と百姓の関係のように思えたからだ。それでその箇所だけが記憶に残ったのだろう。

 

後日になって、神谷の医師としての社会的立場が気になり始めた。壁の染みが知らず知らずに広がるように違和感が広がった。ときどき、出典を探そうとしては、果たせない。記憶はどんどん怪しくなる。

彼女の病者への「献身」は、権威に服従する範囲で存在していたのか。あるいは、専門的営為を社会的構造と切り離して考えられた「良き時代」の遺物なのか…。

ぼくは青森に来てから、松丘保養園入所者の天地聖一さんと知り合いになる。だから、2001年の熊本地裁判決の確定(隔離政策の継続は違憲)と国の謝罪という画期的な状況を、実感をもって受け止めることができた気がする。しかしその天地さんも2003年に亡くなった。(http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=197)

ハンセン病をめぐる、ぼくの思い出である。

先日、成田本店をぶらついていたら、棚の上の方に、生誕100年記念の雑誌『文藝別冊・神谷恵美子』(河出書房新社、2014)が見えた。ぼくのあやふやな記憶の件を思い出した。手にすることにした。もしかしたらヒントでもつかめるかもと…。家で読むが、念願ははたせない。しかし、新しい発見があった。

 

■中井久夫のこと

雑誌に、精神科医・中井久夫の文章もあった。「神谷恵美子さんの『人と読書』をめぐって」(抄)という題である。この文は『神谷恵美子コレクション全5巻』(みすず書房、2004‐2005年)の5巻『本、そして人』の解説の再掲だ。これを読み、神谷をトラウマ治療の先駆者として語るところが興味深い

神谷を「美恵子さん」と呼び、苦悩や絶望に対する人間的な側面から捉える。社会性という水平軸ではなく、人間的に対する深度という縦軸を引いているのである。中井はそういう思いが強い人だ。神谷が29歳で長島愛生園に実習に行った頃につくった詩を取り上げている。次はその一節である。

 

何故私たちでなくてあなたが?

あなたは代って下さったのだ、

代って人としてあらゆるものを奪われ、

地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。(「癩者に」1943年)

 

神谷の初恋の相手、野村一彦は彼女と同年齢だった。15歳ほどから知り合った二人は、プラトニックな関係のまま、彼は東京帝大美学科在学中、腎結核のため20歳で夭折した。

引き続いて彼女も21歳で結核に罹患。治癒したしたものの再発、一時は死をも覚悟したが奇跡的な生還を果たす。

このような若い神谷の体験が、ハンセン病の患者と出会ったとき、「何故私たちでなくてあなたが?」と言わせた。この言葉には共感と断絶がある。「あなたの責め苦が聞こえる」という共感から使命感の呼び声を聞きとる。しかし「あなたになれない私」という断絶が罪悪感となって自らを責める。

「一般精神科医はできるならば(トラウマ治療を)避けたいという者が少なくない…トラウマは治療者を変える。彼/彼女(トラウマ治療を行う医師)は周囲の医療者団」から孤立しがちである」(p143)と中井は言う。

ハンセン病患者は置かれた社会状況も重なり、深いトラウマをかかえた人々であった。神谷は1958年から1972年の間、長島愛生園に勤める。そして深いトラウマとむきあったのである。

 

――長島愛生園で神谷さんとおつきあいのあった方々に会った人の手紙によれば「皆さんが神谷先生はほんとうにへだたりがなく、はにかむようにお話をされたとおっしゃいます…」…「はにかむ」とは胸を突かれる意外さである。新鮮で初々しくはにかむ練達の精神科医はめったにいない。それは尊大な「専門家」の対極である。この「はにかみ」に秘訣があるのかもしれない――(p145)

 

■トラウマのこと

トラウマをかかえた人は、人間存在の深いところにあるべき「基本的な安心感」とでもいうべきものが、ぽっかり空き、代わりにブラックホールが実在しているかのようだと中井は言う。

「はにかみ」は、ブラックホールと闘うわけでも逃走するわけでもなく、せせらぎが流れるようにゆっくりと何かを注ぐようなものなのか。

中井にとってトラウマは大きな研究課題であり、実践的な課題であった。彼が訳したジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』(1996年訳出、みすず書房)は阪神・淡路大震災後の状況の渦中の仕事だった。日本のPTSD、心的外傷の取り組みの出発となった本である。原題は「トラウマとリカバリー」。

この本の訳者あとがきで、なぜトラウマを「心的外傷」と訳したのかという説明がある。

トラウマとは、本来、ギリシャ語(トローマ)で身体の外傷の意であったが、英語圏では19世紀からすでに心の傷をトラウマと表現していた。しかし、トラウマというだけで「心の傷」として表現する「用例は、1996年現在、まだ一般に定着しているとはいえ」(p389)ないと述べている。このように、20年前トラウマという言葉は、当時の日本社会においては一般的ではなかったのだ。

ところが、いまやトラウマという言葉が身体外傷を意味していることを知っている人が少なくなってしまった。なんとまあ、言葉の意味は逆転し、内実が薄まり、すごい勢いで広がったのだろうかと思う。

だからだと思うが、『心的外傷と回復』を訳したその9年後の「神谷恵美子さんの『人と読書』をめぐって」で、中井はトラウマという言葉が、自分勝手に使われている時流にいささか怒っている。そこがぼくには面白い。

 

――トラウマを最初の人にぺらぺらしゃべるのは、よほど軽いか、何かの拍子にしゃべりなれてしまって「心の産毛」がすり切れたか、そもそもトラウマでないか、だ。心の傷を外傷患者はよほどのことでなければ語らない(p138)……初診で声を大にしておのれのトラウマを語る人は方々の診療所を回って「精神医学化」された患者か、そもそも外傷患者ではないかである(p143)――

 

たった9年でこのような状況になったのである。さらに10年余がたち、状況はいよいよ悪化している。真の意味のトラウマは見えなくなっている。http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=2377)

 

■トラウマを越える人々

自分流のトラウマを財産のように扱う人はあとを絶たない。しかし、その一方で、騒がしい時流に背を向けて、深いトラウマ=外傷をかかえつつ、苦闘し、ひとり静かに超えていく人もいるだろう。

『文藝別冊・神谷恵美子』に「苦しみの記憶を「遺産」へ。――2014年・国立療養所長島愛生園訪問記」という記事もある。編集者の清田麻衣子氏による紀行文である。

訪ねた島の風景、納骨堂、曲がりくねった療養所の道、かつて収容時に使用した消毒風呂や大部屋の病室などの写真が掲載され、文章が綴られる。

88歳の入居者が出てくる。彼は21歳の時に入所したというから昭和22年頃の入所だろう。昭和30年から絵を描き始め、たいそうな腕らしい。ということは、30代から40代にかけ、療養所という場所で、神谷としっかり空間を共有していたことになる。彼はハンセン病を病んだことをふせて、絵を描き続けている。展覧会で彼の絵を見た東京の画商やアメリカの会社経営者から買いたいといってくる。しかし売らない。絵を描くこと、一筋である。

そのような彼だから、インタビューに答えても、名前は出さないし、写真も撮らせない。「神谷美恵子さんは知っていますか?」とたずねたその答えがいい。

――「見たことはあるよ。みんなに親しみをもたれていた方だったと思うよ。話をしとる人はたくさんおったけど、でもぼくは直接話したことはない。ここに引っこんでずっと絵を描いとるから」/そう言ってまたこちらの期待に応えられないことを申し訳ないというふうな笑顔で笑った――(p159)

 

そうだな。神谷恵美子と話をしないまま、長島愛生園を過ごした人も数多くいただろう、とぼくは気づく。つまり、精神科医に近づくことなくトラウマを越えた人も数多くいたし、今もいるのだ。88歳の彼のような人々が、世界の果てでしっかりたたずみながら、社会全体に広がる自分勝手な喧騒の振えを沈めているのかもしれない。

ところで、訪問記には島の火葬場の写真はなかったが、いまも保存されている。例の解剖の光景もぼくのなかで気になり続ける。

 

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