マーク・ローランズは契約についてこう述べている。
人々が契約の定めに従って生きる道を選んだと想像することによって、わたしたちは公平な社会、公正な文明がどのようなものであるかも見つけ出すことができる、というのだ。そして、こうした定めがどのようなものであるかも見つけ出せるという。
わたしもかつてはこう考えていたが、今はそうではない。契約の意義は、それが人間についての何を露呈するのかという点にあると、今では思っている。しかも、契約が露呈するのは、またしても人間性のもつ決して喜ばしくはない側面なのである。(「哲学者とオオカミ」マーク・ローランズ著.2008.今泉みね子訳.白水社.2010年.P138-139)
契約は公明正大なもの、好ましいもの、吹き抜けのよいものと、わたしも信じていたが、最近はどうもあやしい場合があると思うようになった。だから、ローランズの話は刺激的だ。彼は、契約というものの本質に人間性の負の部分が反映しているという。
彼のいう人間性とは、彼が「サル」と呼ぶところの、功利的で、計算高く、相手を騙すことに躊躇ない性癖のことである。
(社会契約論を)掘り下げていくと…隠された仮定に突き当たる。契約は、予想される利益を見込んだ上での犠牲にもとづいている…契約によって保護を受け、他者にあなたの利益を守らせるようにするためには、あなたも他者の利益を守る意志がなければならない。
これは高くつくことがある…だがここに重要な抜け道がある。あなたは実際には自由を売らなくてもよい…重要なのは、犠牲を払うことではなくて、他の人々があなたが犠牲を払っていると信じることなのだ…契約では、イメージ、見た目がすべてである…契約はその本質からして、詐欺的な行為に報いる。
これは契約の奥にある構造的な特徴だ。あなたが人を騙せるなら、なんらコストをかけることなく、契約による利益を得ることができるのだ。(p140-141)
確かに、契約を結ぼうとする者は、互いに利益と不利益を相互に確認し、守りあいましょうと約束する。そして、金銭、時間、エネルギーを交換する。しかし、約束を守っているように見せかければ、これは、労なくして利益が得られる。契約を、公正さとは何の関係もない利益を生み出す材料として、可能性が計算できる素材として、うまく活用する。そういった事件やできごとは、この世に掃いて捨てるほどあふれている。
公明正大であるかの契約の奥深くに、なぜ、詐欺師が存在するのだろう。人は騙し、欺く動物であることを前提に、契約は成立し、発展してきたのだ。だからこそ、契約のなかに巧妙に詐欺師が入り込めば、大きな利益を生み出す。ハイリスク・ハイリターン、競馬の三連単。
社会は詐欺師を見つけ出すための技術を開発するが、詐欺師はさらに出し抜こうとする。詐欺師をめぐっての軍拡競争が現代社会にあるという。
契約は、わたしたちの奥深くにある何かを成文化したもの、つまり、はっきり表現したものにほかならない。計算は契約の核をなし、人間の内にあるサルの心臓部となる。契約はサルのための発明物であって、サルとオオカミの関係については、まったく語ることができない。
なぜ、わたしたちは…イヌが好きなのだろうか。なぜわたしは(オオカミの)ブレニンを愛したのだろうか…イヌは、わたしたちの魂の、久しく忘れられていた奥底にある何かに語りかけるのだ、と思いたい。
そこには、より古いわたしたちが住みついている…これはわたしたちがオオカミだった頃の魂だ。このオオカミの魂は、幸せが計算の中には見出せないことを知っている。
本当に意味ある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。そこでは、忠誠心が最初にある。このことは、たとえ天空が落ちても、尊重しなければならない。計算や契約は常のその後に来るのだ。(p152-153)
忠誠心が存在しない契約は、ただのゲーム。愛と無関係の契約は、詐欺師にとってはゆりかご。騙し、欺くことに想像力が働かないお人よしたちは、不思議の国のアリスになった気になっているうちに、泣きをみる。
いま私たちが切実に求めているのは、計算と契約を越える関係である。契約では愛を形作れないし、幸せの前提にもなれない。真摯に愛を求め、誠実であろうとする者どうしのなかで、契約は、サルの策略から人類への素敵な贈り物に変容する。
森の奥にある小さな花が、そのとき同時に開花する、かすかなその音を耳の奥で私は聞くことができるかもしれない。何かの予兆として…