なんとなくサンネット日記

2011年1月18日

オオカミとサルの道徳

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:01 PM
大寒近し善知鳥神社

積雪77センチメートル

哲学者のマーク・ローランズは、ときには近所の人にマラミュート(大型犬)と紹介したブレニンといっしょにジョギングをするのが好きだった。

ブレニンが走ると、身体は上下せず、背中をまっすぐ伸ばし、地上数センチを浮び、滑空するようで、それは美しかった。

ローランズと10年以上も共に暮らしたブレニンは、実はマラミュートではなく98%のオオカミだった。

ローランズは、オオカミが十分な運動になるくらい、ジョギングにつきあえる体力の持ち主だったが、人嫌いの面もあった。ブレニンとの生活を送り、思索するうち、オオカミ好きが高じ、人嫌いはより促進されたらしい。

マーク・ローランズにいわせると、人のなかにはサルが住んでいる。「サル」とは人間の本質的な性癖をデフォルメ(誇張)したメタファー(比喩)だ。サルはけたたましく計算し、いそいそと可能性を考える。陰謀や謀略をめぐらせ、他者を欺き、騙すが、一方のオオカミにはそれはない。

オオカミは自分の強さを頼りに、なすべきことをなし、結果は受け入れる。しかし、社会的な動物であるサルは、仲間のなかに弱さを作り、そこにつけこみ、自分が欲する結果が生まれるように、日々忙しく過ごす。サルは「弱さ」から行動の契機が生まれるのだ。

サルに友だちはいない。友の代わりに、共謀者がいる。サルは他者を見やるのではなく、観察する。そして観察する間じゅう、利用する機会をねらう…サルは人生で一番大切なものも、コスト・利益分析の視点から見るのである(「哲学者とオオカミ」マーク・ローランズ著.2008.今泉みね子訳.白水社.2010年.P13)

このようなデフォルメは、猿に対しても人間に対してもあんまりだと思いつつ、彼の主張は明確だ。

人はそのようなサルだから、オオカミとは違い、道徳を必要とする。人は芸術や文学、文化を創造し、物事の真実を発見することができるが、それは、サル的詐欺師の側面をおさえる「道徳」という財産をもっているからだ。道徳を失えば、人はただのサル、ただの詐欺師に陥るという。確かに、そうかもしれない。

ローランズのいう道徳は、サルとしての本能的能力の暴走を、反対側から押し返す。そして思慮深く、思いやりある人間として存在させるために働く意思(義務)なのだ。

(道徳とは)身を守ることができない者を守る義務である。相手を劣った存在と見なして、だから犠牲にしてもよいと考えているような人間から自分を守ることのできない者を、守ってあげる義務だ。

(そしてもう一つあるのだが、それは)自分の信念を適度に批判的に検討する義務だ。入手できる証拠をもとに、自分の信念が正しいかどうかを検討し、その正当性を無効にするような証拠がないかどうかを、少なくとも確かめようとする義務である。(P111-112)

この二つの義務の不履行が、不道徳で邪な、信じがたい悲惨なできごとなどを引き起こす。邪悪は特殊なことではなく、誰のこころのなかにもある働きが、ある意思の欠落によってひき起こす陳腐なできごとだ。なるほどと思う。

自分より弱い存在を守り、自分の信念がそのために働いているかを確かめようとする。この二つの義務を個人で背負い、家族で大切にする。コミュニティのなかでこの義務を実現しようとする。これが正義というものだろう。

オオカミは邪悪な存在というイメージがあるが、ローランズは、邪悪はオオカミでなくサルのほうだといっているのかもしれない。そして実際のサルではなく、義務を忘れた人間であるといっているのである。

ローランズは大学で哲学を教えた。彼はアメリカ、アイルランド、イギリス、フランスと移動したが、ブレニンもいっしょだった。そしていっしょに大学に行った。だから、彼のシラバス(学生にむけた講義内容や留意事項のメモ)にはこう書いてあった。

「注意事項 オオカミを無視してください。オオカミはあなた方に何もしません。ただし、バッグの中に食物がある場合には、必ずバッグをしっかり締めてください」

講義が退屈な部分にさしかかると、寝ていたブレニンは身体を起こして遠吠えをした。学生たちは教わったデカルトのことは忘れても、きっとブレニンは忘れていないだろう。 ローランズのこの本には、サル的詐欺師と契約についてのおもしろい考察もある。しかし、これはまた別の話である。

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