なんとなくサンネット日記

2010年12月19日

身構える偏見と降りていく柔らかさ

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 5:33 PM
古川1丁目

まちのなかの鳥居

看護学生にむかって、福井さんが話している声が耳に入った。

「べてるの家の向谷地さんもいっていたけど、医療従事者にも精神障害者に対しての偏見ってあるんです。かえって普通の人より強いくらいに…」

ほんとうにそうだよな、パソコンにむかっていたぼくは無言のまま同意していた。

専門家、関係者…、精神病にかかわる人々のなかにある、病気に対する偏見、差別をいろいろなところで目にしてきた。自分自身をふりかえってもそれはある。

でも、「だから、だめなんだ」とぜんぶをまとめて一刀両断にしてしまっては、どうしようもない。

無知から生まれた非人間的な偏見があるが、暮らしや仕事のなかで体験した恐怖感や孤立感が差別意識になる場合もある。

なぜか福井さんの言葉が頭に残っていて、次の日に街を歩いた。そして、考えた。

医療従事者などの専門家、関係者が、精神病に向き合いながら、どうしようもなさ、深い無力感、絶望的な気分を味わうことはままある。

それは、病気をしている本人が体験している世界が現実に反映しているのだと、頭で理解しようとするが、次から次から直面すると、自分のなかに固定的な姿勢をつくりはじめる。その一つが偏見や差別だ。

露骨な偏見でなくとも、回避したり、見えないふりをしたりするマイルドな差別(的な対処?)もある。実にいろいろなバリエーションがある。

そういえば、新潟の清水義春さんがこんなことを書いたことがある。

「精神障害とは、家にも学校にも、職場にも地域にも居場所がなく、自分でも自分が嫌いになってしまった、孤独でさびしい心の病のことです」

「人間にとってそんな一番辛い病を引き受けた人たちが、仲間をつくり、弱さを絆に地域で働くことは、たくさんの一人ぼっちの人たちのところに降りていき、救う、コミュニティ再生の原動力となるのです」

前段。自分が自分を嫌いになる病気の人がいる。ある関係者は、同じレベルで、自己の恐怖感にもとづく拒否的な態度で、病気とむきあう。これは対称的な関係だと気づく必要がある。病気の人といっしょに、関係者は病気を嫌悪しているということだ。

ならば、後段。病気をのりこえて、仲間をつくり、弱さを絆に地域で働く障害者の人がいる。その対称になる関係者も、自己の恐怖感、孤立感をのりこえるステップがあるということだ。

無力感、恐怖感、孤立感、それらが一時的にかたちづくった差別や偏見は、実は大きな問題ではない。これはのりこえるべき課題である、ということをはっきりさせないことが大きな問題だ。

相手に対するネガティブな感情を見つめ、それと闘い、のりこえる時に(あるいは闘わず静かに降りていくとき)、「たくさんの一人ぼっちの人たちのところに降りてい」く障害者と、互いの世界の深いところで、手を握り合うことができるのではないだろうか。

心の奥からの和合…それは、まだまだ夢見たいものなのだ。

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