なんとなくサンネット日記

2010年10月18日

多くの人が強くなる

Filed under: つぶやき — toshio @ 9:57 AM
トオガラシ

トオガラシ

 1999年4月20日、昼近く、コロラド州コロンバイン高校で銃乱射事件が起きた。

 2人の高校生、エリック・ハリスとディラン・クレボルドが学内で銃と爆弾を乱射。教師1人、生徒12人を殺害、多くの負傷者が出た。2人は襲撃の始まりから49分後に自殺。

 被害の甚大さに現場は混乱。3時間以上も犯人を特定することができないまま、数百人の学生が学内に取り残され救出をまった。

 これは立てこもり事件なのか、共同犯が潜んでいないか、わからないまま数百人の警官が周囲を包囲した。マスコミはヘリコプターから実況中継をし、学内に残った学生との電話インタビューがテレビに流れる。

 救出活動は滞り、そのあいだに息を引き取る人もおり、遺体の収容は翌日にもちこされた。

  事件後、彼らのすさまじい計画が明らかになるが、一部の事実は当局によって隠蔽される。市民は「なぜ、このような事件が起きたのか」を知りたがったが、被害者たちの記憶は錯綜し、情報は入り乱れる。特ダネを追ううち、事実から離れたいくつかのストーリーが生まれた。

 被害者たちは事件によって肉体的・精神的被害を負ったが、「ストーリー」に翻弄された世論によって苦悩はさらに深まった…。

  ジャーナリストのディブ・カリンは、10年間、この事件に取り組んだ。大量の資料を検討し、数多くの関係者とのインタビューを行った。そして、重厚なノンフィクションをあらわす。『コロンバイン 銃乱射事件の真実』(ディブ・カリン、2009、邦訳堀江里美、2010、河出書房新社)である。

  実行される1年半も前に、事件は計画されていたのだった。「いろいろな兆候があったがネット予告も見逃された」。ある書評にそう書かれてあった。私は、どのような兆候だったのか、何ゆえ見逃したのか、そこに関心が向き、読みたくなった。

  表紙を開いて、本文を読み始める前に、ドストエフスキーとヘミングウェイの言葉が並んでいた。

 ひとつめは、ドストエフスキーの『地下室の手記』の一節。悪についてである。

 次は、『武器よさらば』からのヘミングウェイの一節。「世界は誰彼なしに打ちのめし、そのあと打ちのめされた場所で多くの人が強くなる」。

  ディブ・カリンがこの引用で表現したいのは、信じがたい「悪」が存在し、想像しがたいできごとを引き起こすということ。

 絶望的な悲しみのどん底に突き落とされた事件の被害者・関係者たちは、その後も幾度も繰り返しひどい目にあうのだが、長い時間をかけ、やがて、立ちあがろうとする。ヘミングウェイの言葉は、人々のこのような「力」を指している。

 この二つが、この著作のテーマ、基調低音である。しかし、善と悪、正義と不正義といった二項対立ではない。

 読みすすむと、破壊的な人間の性質、とくに主犯のエリック・ハリスが秘密のうちに育てていた「思い」には、おさえきれないやりきれなさに襲われる。そして、その「思い」がいとも簡単に現実化してしまう現代の危うさに、目まいを覚える。なぜ、人はこのようなシステムをつくってしまったのだろうか…。

 18歳になったばかりで死んだエリックは短い人生だが、予兆を表現し、記録を残すことに熱心だった。ウェッブサイトに、学友に、親に、保安官に、セラピストに、更生保護担当者に、ビデオテープに、バイト先の若者に。しかし、関係者のそれぞれの都合によって、それは見逃された。見逃しの動機は自己防衛と真剣さの欠如だった。

  彼らに銃の調達を行った人物への判決で、判事はこう述べた。「被告の取った行動は、あとにくる激震の第一歩だった。我々はみな、危害をもたらす可能性を目撃したときにそれを阻止しようとする道徳義務がある」(P392)。確かにそうだ。しかし、この事件の場合、道徳的義務はほとんど行使されず、エリックの「思い」はあらゆる阻止線を簡単にスルーした。

  耐え難い事件だが、本の最後で、10周年の式典で負傷者を代表してスピーチをしたヴァリーン・シュナーの言葉に救われる。1年に4度の手術を受け、数年にわたり感染症に苦しんだ彼女は、いま児童関係のソーシャルワークの仕事についているのだった。彼女はこうインタビューにこたえた。

 ――新しい道を見つけたからこそ、エリックとデュランを許すことができた。「怒り?もうないわ」彼女は言う。時間はかかったが、数年をかけて徐々に怒りは薄れていった。「自分をしっかり持とうと思ったときから、過去にとらわれなくなった」彼らではない、彼女自身の問題だった。(P506)

 絶望と希望がぴったり同居した事件とその後。「悪」と、打ちひしがれた人々が立ち上げろうとする「力」の二つは、闘いあっているのではなく、別々に同じ場所に存在している。この本はそう言っている。

 家族・規制・情報などの社会システムが、「悪」の側からも、「力」の側からも利用可能な中立的な存在であることが、事件を可能にしたのだ。ディブ・カリンは控えめにであるが、それでいいのかと私たちに問いかけているようだ。

コメントはまだありません

No comments yet.

RSS feed for comments on this post.

Sorry, the comment form is closed at this time.

Powered by WordPress