なんとなくサンネット日記

2010年9月30日

特急 しなの

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 3:43 PM
もう過ぎ稲刈り

もう過ぎ稲刈り

 9月18日、ラジオ深夜便の「アジア・リポート」のコーナーで、ハノイ在住の松沢宰美さんが語ったエピソードが気になりました。松沢さんは若い女性、控えめなもの言いの人です。

 彼女は思い出しても腹が立つらしく、途切れがちに話し始めました。

 今年の夏、松沢さんご夫婦は日本に一時帰国。お連れ合いは大阪に、彼女は一歳のお子さんを連れて長野。それぞれの実家で日を過ごしたあと、合流するために彼女が大阪に向いました。

 長野から名古屋までの特急は3時間。混雑した車中で子どもがぐずり始めました。そのとき、そばにいた中年の女性が「迷惑だわ!」と言った、このことのエピソードです。

 松沢さんは仕方なく、デッキに出てあやしたそうですが、4,5歳の子供ならいざ知らず、乳飲み子に向かって「迷惑」なんて…、ベトナムだったらこんなことはない…と泣けてきました。

 車掌さんは彼女に気を使ってくれたし、大きな荷物をもっての移動にプラットホームでは見知らぬ人に手助けしてもらいました。

 ベトナムなら、ぐずっている子どもがいれば、どこかのおばさんがすぐに手を出し、「ほら、私にかしてごらんよ」とあやしてくれる。そんな人間的なふれあいがあるのにと、ベトナムに戻っても憤慨さめやらぬ様子の松沢さんです。悔しかっただろうな、と私は思いました。

 このエピソードから、私たちは何を汲みだしたらいいのでしょう。

 子どもに寛容でない日本人の大人たち、不機嫌な社会と時代、異質な人を排除しようとする圧力…。わたしもそのように感じるのですが、この場面にあらわれた不寛容さ、不機嫌さは、〈個人→個人〉という個人間レベルのぶつかり合いではありません。そこが気になるところです。

 個人間であれば、「(私がうるさいと感じるので)静かにさせてほしい」と中年女性は言ったはずです。ところが、そう言えば、周りで聞いた人は「乳飲み子に静かにさせろと言うなんて」と疑問が起きます。周囲はその女性のほうに不自然さを感じてしまいます。

 誰かが、「もしもし、こんな幼い子に静かにして、と言っても仕方がないじゃないですか」とその中年女性に言ったなら、その人の愚かさがたちまちあらわになったでしょう。

 しかし、その女性は「迷惑」という言葉を使いました。すると、「『誰しも』が迷惑と感じている。そう感じさせている『あなた』はわがまま」という構図になったのです。こういう言い方であると、なかなか返しにくいものです。なぜでしょう。

 「うるさいと感じている私」から「感じさせているあなた」に、問題の重心が移動しました。そして、誰々と指し示すことはできないけど「迷惑をかけられている私たち」が、不明瞭な空間に立ち上がったのです。この「私たち」は「世間」ということにつながり、それによって支えられるのです。

 このような思考方法、思考構造はよくあることですが、そこに「世間」「家族」というキーワードを感じ取るのは、斉藤環の『家族の痕跡――いちばん最後に残るもの』(ちくま文庫に2010年収、もともとは2006年)を読んだことも関係しています。

 でも、なぜ「家族」か。説明のため、ちょっと状況を仮想してみます。

 もう一度、あのときの日、長野から名古屋行きの同じ特急に戻ります。乗客はほとんど同じです。

 でも、松沢さんのお連れ合いもいっしょで三人連れであるところだけが、今度は違います。同じように人は込み合い、一定の時間が過ぎると子どもがぐずり始めます。さて、その時、かの中年の女性が「迷惑だわ!」と言うか、どうか。ここです!

 私は、言わないと思うのです。中年の女性は、松沢さんたちが三人だと次のように思うのではないでしょうか。

 旅行か親戚のところに行くのか、ともかく何らかの理由で、やむを得ず混雑のなか、「力を合わせて、移動している家族」なのね、うるさいけど…と。

 ところが、二人だけの時は「この混雑のなか、わざわざ子どもを連れてのりこんでいる『勝手な女性』」と受け止めていたのだと思います。

 前者には「家族」の物語(ストーリー)があり、後者は「勝手な個人」しかいないのです。「世間」は勝手な「個人」に厳しいのですが、「世間」と「家族」は補完し合い、説明し合います。(松沢さんのお連れ合い=男性がいるからと違うのか、と思われるかもしれません。彼と赤ちゃんの二人だったら、ぐずっても、彼に面と向かって言うことは避け、でもヒソヒソと聞こえるように「迷惑よね」と言うなど行動が緩和するかもしれません。でも、家族の物語でとらえないという点は同じであると思います。)

 ここで、中年女性の真意に戻ると、彼女は幼子のぐずりに腹を立てていたのではなく、松沢さんの世間的でない「勝手な」振る舞いに苛立っていたのです。つまり、赤ちゃんを松沢さんの「所有物」、自分にとっては「異物」としてみなし、赤ちゃんとの間に人間的な関係は何もなかったと思えるのです。

 子どもに対する不寛容さの表れではないけど、それより一歩進んだ、排除すべき対象ですらないということでしょう。怖いことです。

 

 (追加)斉藤環の『家族の痕跡』で、興味をもったところはたくさんありましたが、次はその一つ。

欧米人のプライヴァシィーは、完全に個人だけのものだ。ところが日本人のプライヴァシィーは、個人でなく家族に所属する(p149)。

 「世間」と「家族」は支え合うこともあるけど、ぶつかり合い、ときには「世間」が「家族」をおしつぶす時もあります。(松沢さんのエピソードはそれに近い)

 しかし、「家族」にとって「家族」として成り立つためには「世間」(という基準)が必要であるから、「世間」にたいして防衛するために、プライバシーが「家族」のために存在する。…これには、はたと気づかされました。確かにそういう面があります。

 「世間」と「家族」をプライバシーとともに超える…昨日のNHK「ハートをつなごう」を思い出しつつ、べてるのメンバーの語り(弱さの情報公開)のなかに、はればれした香りを感じる理由の一つを理解した気がするのです。

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