なんとなくサンネット日記

2010年7月27日

〈私〉の時代 №4

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 12:49 PM
いつか来た道

いつか来た道

 NPOや起業などによって生まれる自発的な共同体は、構成メンバーどうしが強い絆を求め、独特の雰囲気を創り出すのだろう、と思われる。

 わざわざ新しいグループを立ち上げたのだから、設立趣旨に賛同して集まっている人たちなのだから、トラブルは世の習いとしても本質的には情熱に満ち、まなざしを遠くに向けているに違いない、と想像するのは自然かもしれない。

この10年、「明るいNPO」「元気な起業家」、そういうイメージが求められてきた。しかし、実際は違う。

 どの団体にも、グループ周辺に自分を位置づけ、批評的な立場をとる人たちがいる。自発性が求心性を生み出さず、むしろ拡散する。中心は分割し、葛藤する。そして、明るくもなく元気でもない組織運営が生まれる…。

 どうしてこうなるのか…長いあいだ考えていた。

 時代が連帯や信頼というものを、かつてと異なる相貌にしたからか。個人主義、市場原理が人の見方と関係のあり方を変えたのか。投機的な風潮が秘密を常態化させ、連帯・信頼より個人的利益を価値あるものと考えるようになってしまったのか。

 それともパーソナルコンピュータや携帯電話が、視覚と触覚とスピードに偏った世界をつくり、自己の内面への関心を失わせたためか…。

 「私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語のなかに埋め込まれている。私は過去を持って生まれる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離されようとするのは、自分の現在の関係をゆがめることだ」。アメリカの哲学者・アラスデア・マッキンタイアの言葉だ。(『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデルp289)

 これを読み、もうひとつ、思いついた。それは、マッキンタイアの言いたかった裏面である。つまり、「個人主義の流儀」の人は、グループとの共同性に身を寄せることが「自由と選択」を手放すことであると思うかもしれないということだ。

 個人主義の流儀(自由と選択)が、共同体の過去と物語によって、制限される可能性があるということは意味深いかもしれない。

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