なんとなくサンネット日記

2010年6月26日

〈私〉の時代

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:20 PM
初夏のアスパム通り

初夏のアスパム通り

 ――対等への欲求はかつてないほど先鋭化していますが、その平等を実現するための、他者との連帯・共闘の道筋は不透明になるばかりです。それどころか〈私〉の平等意識には、自分と同じような人間たちの一人にすぎない自分、という独特の無力感があります。

 他者との紐帯が希薄化するなか、自分の「かけがえのなさ」にあくまでもこだわる〈私〉。と同時に「大勢の一人」でしかない自分の小ささを、痛いほど自覚している〈私〉。このような〈私〉の平等意識こそが、現代の平等問題の最大の特徴なのです。――(『〈私〉時代のデモクラシー』.宇野重規.岩波新書.2010年.P41)

 かつて、対等・平等への欲求の深部には、政治性が位置づいていました。

 1955年、黒人女性のローザ・パークスは公営バスの「白人専用及び優先座席」に座ったのですが、日常的な人種差別に抵抗する勇気ある彼女の行動は、公民権運動を推し進めました。平等を求める個々人の欲求、それは、平等を許さぬ現実と衝突し、その軋轢のなかで政治性を帯びるのです。

 かつて、どこの国でも、一人ひとりの思い・行動が、他者のそれとつながり、まだ陽のなかに出ていない、人々の政治性が闇の中を地下水脈のようにとうとうと流れていたのです。

 時代は変わりました。対等を求め、私たちは遠くまで旅をしてきました。政治、社会、他者との連帯、町や村、いろいろな風景を通り過ぎました。そして、ここは〈私〉の国。他者との連帯を求めようとする欲求を、〈私〉へのこだわりが巻き取る世界です。孤立した数多くの〈私〉はたたずみ、不安で、不機嫌なまなざしを足元に落としています。

 引力のように、自己に、自己にと、内側に押し込めてしまう「力」に抗し、他者への共感を、連帯のこころを外側にいかに飛ばしうるのか。その営みを、時代が求め始めています。禁止された場所を奪い返したローザ・パークスのように。しかしいま求められているそれは、不可視の営みなのです。

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