なんとなくサンネット日記

2010年5月19日

悲し・哀し・愛し

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 4:25 PM
1954年の思い出

1954年の思い出

■万葉文化

 15日早朝、ラジオ深夜便「明日へのことば」。ゲストは、奈良県立万葉文化館館長の中西進さんでした。漢字が渡来する前の日本の言葉、「やまと言葉」についてのお話です。

 ふとんのなかでとうとうとしながら、「面白い話だな」と思いつつ、寝てしまいました。この時間、不思議なのですが、面白い話や聞いていて気持ちよい話は眠くなります。

 さて、眼がさめると何の話かほとんどおぼえていません。それでも、わずかに、万葉の時代の人は人間の身体を植物に照らして名づけた、という話の始めはおぼえていました。

 ■芽=メ=目

 「芽=メ」は内なる力が始まるところ、だから人間では「目=メ」。そして、「花=ハナ」が現れ、人の「鼻=ハナ」もあらわれる。「実=ミ」はできごとが結実するところで、人では「耳=ミミ」になる…といった話。半分寝ていましたから、怪しいところもあると思います…。

 現代人はモノの外見や機能に着目して名づけることが多いのですが、万葉人はモノの内側にある働き、働きを描く世界観によって名づけたということです。いまの私たちとはかなり違った見方をしていたが、そこには学ばなければならない智恵がたくさんありそうだ、そんなふうに思いました。

 目は今のように探る道具ではなく、自分の内側の力を発揮し始める部位だった。そして、できごとを結実するための耳は、「聴く」=理解する、ものごとをはっきりさせるモノ。現在とは逆転の発想です。では、そもそも「メ」や「ミ」はどのような世界のなかにあったのだろう、どんどん私の思いは広がります。 

■かなし(悲し・哀し・愛し)

 中西さんの話を聞いたのち、近所の本屋をブラブラしました。彼の本は見つけられず、柱の陰にあった『「かなしみ」の哲学――日本精神史の源をさぐる』(竹内整一、NHKブックス、2009)を手にしました。読んでみると「やまと言葉」についてふれています。しかし「メ」「ミ」などのモノではなくて、「かなし(悲し・哀し・愛し)」という心の動きについてでした。

――やまと言葉の「かなし」とは、そのカナが「…しかねる」のカネと同根とされる言葉で、力(ちから)が及ばずどうしようもない切なさを表す言葉である…自分の思いや願いがかなわず、いやおうもなくその有限さ・無力さを感じさせる感情である。(P12)

――何ごとかをなそうとしてなしえない張りつめた切なさ、自分の力の限界、無力性を感じとりながら、何もできないでいる状態を表す言葉だということである。現在では失われた「愛し=かなし」という用法でも基本は「どうしようもないほど、いとしい、かわいがる」で…「どんなにかわいがっても足りない」という及ばなさ・切なさが「愛し」なのである。(P55)

■達成も獲得できないところに世界を感じる

 いま「悲し」といえば、その原因が外にあって、何らかの影響を人に与えて、その結果の状態であるようにイメージします。万葉の人はまったく違っていたのですね。

 強い感情が自分にある。それはいまでいえば、「悲しい」「愛しい」「おもしろい」「すごい」「くやしい」などいろいろな感情だけど、その感情は満たされない。なぜなら、人間の、あるいは人間社会の事情や条件がどうしても、その思いとその対象をわけ隔ててしまうから。人間存在、人間としての限界、そこで「かなし」が生まれると万葉人は受け止めていたのです。 

 当時の人はなんと「心の動き」に繊細だったことでしょう。心が向かう対象に着目しているのではなく、対象に思いは届かず、届かないところで揺れ動く思い、そこを表現しています。

 ここには人間存在の限界を見つめるという、いまは失われた感受性があります。そしてこの感受性は分かち合いを前提としているのです。このような世界では「悲し」を超えるものは、モノではなく、ヒトでしかありえないからです。

 悲しみを分かち合うことがむずかしい現代の私たち。自分自身の心の動きに鈍感になり、外側ばかりに目や耳を凝らす感覚に、その根っこがあるのかもしれませんね。

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