なんとなくサンネット日記

2016年10月8日

トマトソース

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 4:27 PM
勝ち組・家族の肖像

勝ち組・家族の肖像

■写真

この写真の右には「大東亜戦捷(せんしょう=戦勝)記念祝賀會(会)」という幕が垂れている。前では幼い女の子が日の丸を広げている。

一番後ろの列、左から2番目に立っているのは私の父だ。母や兄姉はなぜか写っていない。しかし、皆、正装しているから、公的な集まりであることがわかる。頭にリボンをつけている女の子がいる。これは、学校や行事などで必ず装うこの地の習慣である。場所はブラジル・サンパウロ、1945年から何年もたっていない頃だと思う。

日本が米英と戦った太平洋戦争、大東亜戦争の勝利を「祝う」集まりの記念写真である。父も母も、生前にこのことについては何も語らなかった。

壁に囲まれた場所で撮った写真、まるで人目を避けているようだ。参加者の表情から「祝賀」という喜びは伝わらない。じっと見ていると、「日本が勝った」というこれらの人たちは、実は「日本は勝っていない」ことを知っているのではないか、そう思えてくる。

彼らは、世界大戦後、日本が勝ったと主張した「勝ち組」である。ブラジルの日系社会の勝ち組は有名だが、南米各地にあったという。ブラジルの「勝ち組」は「負け組」より多く、日系では多数派だ。

現代からこの「勝ち組」のできごとを振り返れば、情報不足、集団妄信などの過去の遺物だと思うに違いない。正確に事実を把握できなかった、未開の時代のできごとと受け止めるだろう。

だが、「勝ち組」の末裔であるぼくには、勝った負けたの「事実」だけをめぐって彼らが活動したのではないだろうと思う。客観的な事実問題ではなく、それぞれの胸のうちに、わが身を「勝ち組」活動にと押し出す何かがあったのではないか。そう思う「根拠」が、この写真の緊迫した表情の面々とそれをしっかり取り囲む壁である。

ただの集団的妄信なら、正装した老若男女が静かに集まり、このような写真が撮れただろうか。彼らの胸の中には「故郷の人たちが無事であってほしい、あの山あの川がそのままであってほしい」という願いが広がっていたに違いない、とぼくは思う。

写真を見ていると、ずっとあとになって兄が集めていたいくつもの瓶詰めトマトソースが想起される。「勝ち組」にも、トマトソースにも、ぼくが思うのは、人には、客観的な事実に優先させる「心の現実」、何らかの体験や記憶に裏打ちされたその人固有の「現実」というものがあるのではないかということである。

 

■トマトソース

「勝ち組」の我が家族は、1951年に大型客船で大西洋を周り、ケープタウン、シンガポールに寄港し、日本に帰国した。神戸港にたどり着いたとき日本が負けたことを初めて思い知らされた。船上から見えた神戸の町には、空襲で焼かれた建造物が残っていて、たくさんの浮浪者がいたのだった。

帰国したとき兄は16歳だった。ナイーブな年齢で異なる環境にやって来た彼にとっての日本は、苦労の対象でしかなかった。ずっと生きづらいまま、日本を生き抜いたと思う。

1970年代後半、ぼくは就職した。忙しくなり実家にほとんど足を運ばなくなった。

40歳代になった独者の兄は、両親と暮らしていた。口下手な兄は頑固者の父を避ける。ふらふらと作業着で家に帰ってくると、立って飯をかきこみ、また出かけていく。夜勤なのか、飲みに行くのかはわからない。ダンボール工場で働く父は宿直もし続けていたからあまり家に帰らなかった。母はパート仕事をやめて、自動車部品の内職をしていた。

そんな静かな実家に、ぼくもたまには帰る。あるとき冷蔵庫を開けると、トマトケチャップやトマトソースがいく種類もやけに並んでいるのに気づいた。別の棚にはふたを開けていない瓶もたくさんある。母に聞くと、兄がいろいろ買ってくるという。そうか、トマトソースが好きなのか…。ぼくはそう思い、そのときはそれで終わる。オチのないできごとは記憶の奥に埋もれていった。

何十年も時が過ぎ、両親も兄も鬼籍に入っている。

いまになって気がつくのだが、兄は、ブラジルで食べたトマトソースの料理を懐かしんでいたのではないだろうか。

中高年になると妙に子どもの頃のことが懐かしくなる。食べたもの、見たこと、聞いたこと。もう一度味わいたいと思うようになる。ただ兄の場合問題だったのは、2万㎞も離れた異国を懐かしんだことだった。

兄は子ども時代に味わったあの味を捜し求めてトマトソースを買い求め、思い出と違うことを確認させられて、また探した。おそらく、彼が求めているものは日本には決してないことはわかっているのだが、探さないわけにはいかなかった…。

その結果、いくつものトマトソースの瓶詰めが並んでしまった。兄の心に残っているトマトソースの味。それは日本のトマトソースとはいつも少しばかり違っていたのだろう。

 

■少数者

大戦直後のブラジルの日系人も、日本を生きた兄も、少数者として生きざるをえなかった。そして少数者は多数者に理解できないものを切望することがある。

多数者が望むものは、自身が所属する社会のなかで容易に手に入れることができる。情報、願い、食材、友人、職業…。振り返ればそこにある。いまは手に入らなくとも、我慢すればいずれは手に入れる。少なくても可能性は高い。その世界にあるモノの中で生きてきたのであるし、アクセスできる力がある。

少数者には、望むものが手に入らない。手に入れる力が弱い。あるいは、その世界にないものを望んでいる。

多数者は馴染んだたくさんのモノたちに囲まれて生きる。しかし、世界のはてにも淵があって、そこから球面になる。少数者は球面の内側から外側に押し出されて、球の表面を歩まねばならない。世界に接触しているのだが、内部からはみ出ているともいえる。球の表面を、望むものを手に入れようと歩き続けるが同じところに再び戻る。ぐるぐると回っても、手に入らない。

かつての「勝ち組」も、兄も、手に入らないものを捜し求めていたのだが、どうしてこのようなことが起きてしまうのか。ここには「心の現実」を必要とする深い原理のようなものが働いているに違いないと思う。手に入らないものを切実に求め続ける人間がいるからこそ、社会は成り立つのではないか。社会からはみ出しかかった人によって、社会は原動力を得ているのではないだろうか。そのようなことを考える。

社会の中心部には満たされる人間がいる。周辺部には決して満たされない人間がいる。そのために中心と周辺との間には、求心力と斥力が働く。その力によって、社会全体は安定と不安定の鼓動を打ち始める。

少数者は願いを、いつも社会の外側に向って投げかける。そのことによってその社会は閉じることができず、開かれた存在になる。周辺の少数者が、多数者によって平坦になりかねない世界を救うのである。このようなイメージが浮かんでくる。

「勝ち組」がそうであるように、こういった関係は、多数者との衝突・緊張を含み、狂気に近く、非日常的、破壊的ですらある。多数者からはネガティブに扱われやすいこのエネルギーだが、それは少数者の一人ひとりの切実さという「心の現実」にしっかり根を張っている。さらに、このエネルギーの束は、少数者個々人を貫き、世界の最深部につながり、世界全体の作用にかかわっているに違いないのだ。

 

PS:この写真に写っていない母のことだが、彼女は大戦中、日系社会から離れるように暮らし、近所には(枢軸国側ではない)中国人といっていたという。だから、戦後の勝ち組活動にも乗り気ではなかったかもしれない。父のようなまじめな勝ち組もいれば、母のような少数者もいて、複雑に絡み合いながら社会の周辺を生き延び、社会を豊かにしていったのだろう。

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