なんとなくサンネット日記

2016年8月16日

戸籍謄本

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:26 PM
ふりそそぐ夏の日

ふりそそぐ夏の日

独り者だった私の兄が亡くなって4年になる。享年77歳だった。兄と同居していた姉が自宅で看取った。晩年は病気がちだった兄、その彼を介護した姉。二人とも十分頑張って最期をむかえることができたのだと思う。

葬式を済ませ、兄名義になっている自宅を、看取った姉に譲り渡す変更をすることになった。その面倒な手続きを、もう一人の姉の姪が買って出てくれた。

父方と母方の戸籍(除籍)謄本を何通も取り寄せ、親族関係を調べたり、相続放棄をしてもらったりといろいろ手間がかかった。遠く離れて何もできない私は、ありがたいことだとつくづく思うしかなかった。

一方で、自分の親族関係をよく知らないまま年齢を重ねてきた私は、戸籍謄本に興味が起きた。親族関係はどういうことになっていたのだろう。だいたい祖父母の名前すら知らないし…。目を通してみたくなった私は、姪に頼んでコピーを送ってもらうことにした。

送り届いた古い書類をながめると、女の人たちの何人かの名が変体仮名で書かれているので読めない。ネットで調べ、古い辞書の付録の変体仮名一覧を見つめる。親族の関係を調べてみよう! という熱気はだんだん冷めて、せっかく送ってもらったコピーは机の書類の山のどこかに埋もれてしまった。

 

今年の夏、4年ぶりにその戸籍謄本のコピーを引っ張り出し、再び、親族関係図作成に取り組んだ。読めない変体仮名を、そのまま画像にしてファイルに添付することを思いつき、二日がかりでようやく、7通の戸籍謄本と60人余の関係図を仕上げた。65%の縮小をかけて印刷しても、A4用紙4枚になる系図を、夏休みの宿題を一つやり終えたような快感をもちながらしげしげ眺める。

どのような人に、何が起こり、どんな人生を送ったのか、ほとんどわからないことばかりだが、間違いなくそれは一人一人の人生の記録の一部である。ある人生が、親子兄弟関係・年月日・事由・役場の職名によって記述され、他の人生と結びつき織りあわされている。このような人々の群れの中に自分も存在しているということを、視覚で理解すると、ある種の感慨がこみ上げてくる。

 

一覧にして眺めながら気づいたことがいくつかある。その一つは、結婚や出産の「届出」の感覚が、かつては現代とずいぶん違っていたらしいということである。

いま、結婚式(事実)→入籍届(届)→出産(事実)→出生届(届)という速やかな届出が当たり前というの「常識」がある、と思う。出産したが、役所に出生届を怠っている親がいれば、その人は子を虐待しているとみなす。子どもが生まれれば、出生届をして扶養家族に入れ、健康保険が使えるようにして、病院受診と医療費の支払いが可能なようにする。子ども手当、保育所入所なども住民票が必要だ。戸籍への出生届を怠ることは、医療・福祉・保健・教育・税制度へのかかわりを拒むことになり、空気や水を与えないことと同じだと思う感覚がほぼ一般的だろう。

ところが、その「感覚」は、かつてはずいぶん違っていたようだ。作った系図をながめると届出は起こった事実に対して速やかに行われているわけではないことがわかる。現実世界の「結婚→出産」のできごとと、戸籍に届ける「入籍届→出生届」の書類の表現世界とが、ずいぶん乖離していたことを読み取ることができるのだ。

 

父方の祖父道之助は安政三年の生れである。三代前にさかのぼっただけで幕末になってしまう。父哲雄は、祖父道之助が54歳の時の子どもである。私は父が41歳の時に生れている。そして私は64歳になった。それを足せば157年になるから、そういうことになるのだが、祖父が12歳で明治維新をむかえているという事実を納得することはむずかしい。

父は後妻の子どもである。祖父道之助はずいぶん若くして子どもをつくっていて、父にしてみるとずいぶん年の離れた異母兄がいた。名を廣といった。

その長男・廣が生まれたのは、明治11年である。その頃は、戸籍制度ができて間もなかい時期である。妻こまとの結婚を届け出たのは明治15年で、廣は4歳になっていた。祖父道之助は埼玉県東部の村に住み、豊かな家であったというから、届が遅れたのは制度がまだ未成熟であったからかもしれない。

廣は30歳になると、ある女性との間に男の子をもうけた。しかし、その子が6歳になるまで籍を入れるどころか、認知もしなかった。7歳になってようやく認知し、同時に結婚届も出している。その後、廣とその妻の間に五男三女をえて、多くの子どもに恵まれることになった。

長男の認知と入籍が遅れたのは事情があったのかもしれない。その長男は博といい、父廣と同じ音である。母は、祝言をすることも難しい事情を案じ、わが子に父と同じ名をつけたのではないだろうかと思えてくる。

その博が23歳の時、昭和5年2月7日に長女を得るが、妻ソヨとの結婚届と一緒に2月15日に出生届をしている。昭和の初めごろは届出について、まだまだのんびりした感覚があったのだろう。

父方の祖父から始まる親子三代は、明治、大正、昭和にわたり、戸籍の記載と現実がずれている。男女関係、子どもの出生、家と個人などの現実は、もともと世間体が求めるつじつまとうまく合うわけではない。まして戸籍の記載などにはどうしても矛盾が入り込む。

戦前の戸籍制度が求めているのは、戸主権力という単位であって、個々人の情報管理ではなかったということもあるのかもしれない。

 

母方を見てみても似たことがある。岩手の県南の村で暮らしていた曾祖父秀之進が長男岩儀を得たのは明治27年だが、結婚し入籍したのは翌年である。1年遅れているのだ。岩儀は22歳になると結婚する。大正3年であり、その翌年母キミエが生まれている。

ところが、母は生前、「本当は」大正3年生まれだとよく話していた。その頃、赤ん坊のうちに亡くなることが多く、最初の子どもであり、大きく育つまで出生届を遅らせていたのかもしれないと思う。母の話から、実際は、結婚(祝言)→妊娠→結婚届→出産→1歳を過ぎて出産届ではなかったのだろうかと想像している。

決して貧しくなかった家だが、岩儀は商売で失敗すると、母が長じる頃には相当暮らしに困るようになる。そのこともあるのか、妹たちをたくさん病気で失っている。すぐ下の妹は生後2週間ほどで亡くし、五番目の妹は死産だったようだ。四番目の妹は16歳の時に結核で亡くなった。家は多くの死を送る場でもあったと思う。

今や結婚届、出生届を行うことは当たり前だ。しかし、その届けるという行為とセットになって医療や福祉に結びつくということがある。

医療や福祉に結びつくことは、「生」や「死」を医療にゆだね、「子育て」「介護」を福の支援で行うことである。それに「生産」をするために会社に行き、「消費」をするために町をぶらつく。個々人の家の役割は小さくなり、しかしとてもきれいになった。家に残されたのは「性」と「金」の問題だけかもしれない。

 

系図を見ては、この150年、おそろしいほど人々の生活と暮らしは変わったものだと思う。

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