なんとなくサンネット日記

2016年7月11日

差別と解放

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:49 PM
ゴンドラの唄が聞こえてきそうな

ゴンドラの唄が聞こえてきそうな

『ふしぎな部落問題』(ちくま新書、2016年)という本が、最近、出版されました。本の著者、角岡伸彦氏は、1963年生まれのノンフィクションライター。裏表紙に兵庫県加古川市の被差別部落で生まれ、育ったと書いてあります。

部落問題についての本はずいぶん久しぶりでした。この本を読み、かつてのような「部落解放」「差別糾弾」というスローガン的運動ではどうしても越えられない課題について考えさせられました。

彼は、部落“差別”といかに闘うかという「差別を問う」というスタンスではありません。差別の内側にいて、部落をどう生き、そのうえで差別を超える社会をどのように見通すのかという、差別される側に立脚しつつ見えてくるものを語ろうとします。

生身の現実へのこだわりが彼の視点です。大学卒業後、神戸新聞で働いたという経歴があるそうですから、そういった経験が「現場」に関心を引き寄せるのかもしれません。しかし部落差別の本質に原因があるらしいのです。

 

 部落解放運動は、部落民としての解放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。しかしそれは出自を隠蔽することにもつながる営為であった。部落民としての解放を目指しながら、部落民からの解放を歩まざるを得なかった。(p9)

「どこ」と「だれ」を暴こうとする差別に対し、抗する解放運動は暴こうとする差別意識を問題にします。暴くなと。

しかし、暴くなと差別者に向って言葉を投げかけるとき、その言葉は自分が「どこ」の「だれ」かを明らかにしない、隠蔽に傾斜せざるを得なかったというのが角岡氏の見立てです。

 

部落解放運動ばかりでなく、いろいろな差別や抑圧に対して人々は抵抗運動を組織してきました。

抵抗運動は自由を求め、自立をめざし、多くの人と連帯し、血と涙を流し、抵抗運動や解放運動は気高く、尊く、人間性にあふれていました。

同時に、なぜか運動には、その内側でいつも小さな抑圧が生まれました。あぶくのような抑圧は大きくなると権力的になり、差別する側に成り変わっていきました。そのようなことはたびたび起きました。

角岡氏の、差別問題と解放運動を同時に問題にしようとするこの提起は、私が関係している障害者問題ともつながるものを含んでいます。しかし角岡氏は安直な普遍化はせず、部落解放運動にこだわり、次のように続けます。

 

数あるマイノリティ、被差別者の中で、部落民だけが差別を媒介とした存在ではないだろうか。たとえば身体・知的・精神障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族などは、差別をされることはあるが、差別がなくても存在する。ひとり部落民だけが、身体や民族や文化的差異があるわけではなく、差別されてきた歴史によって存在するのである。

加えて反差別運動やその成果である同和対策事業が、部落民を残してもきた。近年ではインターネットの普及が、部落の存在を明確にしている。つまり部落民は、差別の歴史を土台にしながら、そのときどきの状況によって存続してきた。(p13)

多くの被差別者が「差別がなくても存在する」ということはどういうことなのでしょう。ここで挙げられた障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族などのマイノリティは、いろいろな差別に直面しています。しかし差別がまったくなくなったとしても、やはり彼らは、障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族として生きていきます。

周囲の人との差別的な関係(差別する-差別される関係)があるか、ないかにかかわらず、彼らの固有の肉体、言葉や生活を成りたたせる文化、遺伝子にもとづくアイデンティティが継続するだろうからです。このことを指しています。

ところが、部落差別がなくなった未来社会を想像してみると、その世界では、どこの地域が被差別部落だという意識も、その地域に暮らしている誰それが部落民だという意識もなくなります。差別がなくなると、部落民も消滅してしまうと角岡は主張しているのです。ここが他のマイノリティ問題と部落問題の違いだと言っています。

もしそうなら、部落差別はとても純化した差別の形だといえます。肉体、言葉や生活などの「モノの差」ではなく、歴史・社会・活動・情報などの人間の営みに根ざした「(差別)意識」だけによって差別が生れるのですから。

それだけに、差別を考えるときのいちばん深いものが部落差別にはあるのでしょう。

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