なんとなくサンネット日記

2016年6月25日

事後性

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:20 PM
花開く

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■ジジェク

スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェク(1947年-)。彼の名前は、社会学者・大澤真幸の本を読んで知りました。なにやら気になる人だと思っていました。去年、『事件!』という本を買ったのですが、すごく博学な人だと思ったものの、30頁ほどでたちまち挫折しました。

ジジェクの30年以上前の初期の論文が日本で出版されることになった、という記事を目にしました。著作の全体が「事後性」というキー概念によって貫かれている、と紹介されていました。 事後性! なんと魅力的な言葉なんだろう! 私はそう思いました。

『もっとも崇高なヒステリー者 ラカンと読むヘーゲル』(みすず書房)という題名です。訳者は、名古屋大学医学部精神医学教室の有志が長く続けているジャック・ラカンの読書会の3人のメンバーです。ジャック・ラカン(1901- 1981)とはフランスの哲学者、精神分析家で、ジジェクはラカンの孫弟子にあたります。(…しかしこの本はぼくには歯が立たないだろうなあ)

目にした記事は、訳した3人の精神科医による鼎談です。(週刊読書人.2016.6.10号)

 

精神分析学でいうところの「事後性」とは、無意識に抑圧したできごとが、何年かあとのできごとが引き金になって、最初のできごとが症状となって表面化する、といったことをさします。最初のできごとは後になっていきるできごとによってしかわからない、ということです。

ジジェクのいう「事後性」は、患者個人の精神世界の枠を飛び出し、社会や人間の歴史すらこの「事後性」に貫かれていると主張しているらしいのです。個人の内的世界を描く「事後性」という言葉が、世界全体を見通す羅針盤の針になってしまったのです。イモムシからチョウになって、広い世界を羽ばたき始めたように思います。

訳者の一人である菅原誠一氏は、ジジェクの「事後性」について次のように述べていました。

――我々は普通、時間は一方向に進むという前提で話しますが、ジジェクの本に従うならば、事後的に振り返りながら繰り返すようなあり方のほうが、むしろ人間の本質であり、一方向に進んでいく発展的・進歩的な見方は倒錯的である。そう思えるぐらいの論の進め方になっています。

 この発言を受けた先輩格の鈴木國文氏はこのように応えます。

――(ヘーゲルの唱えた弁証法は、一般的に時間に沿って進んでいくと思われているが)弁証法とは前に進むものではなく、事後的なものだと読むことができる。これはラカンの理論を踏まえて初めて言えることだと思います。

  ヘーゲルの弁証法についてウィキペディアはこう記述しています。「ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つ」が、弁証法を構成する、と(弁証法(的)論理学の記述.2016.6.25)。

正・反・合と展開していく歴史観は、その後のマルクスによってさらに理論化されました。そして、一般的には過去から未来にと進化的に展開するという観念が強固になったのです。

個人のトラウマの解釈方法であった事後性という概念を、ジジェクは、哲学や思想の基礎部分に組み入れ、私たちの観念の前提をくつがえす地平に、彼は導こうとしているのです。

これは、どうもすごそうだ、一方向に進むのではなく、事後的に繰り返す時間…?? 私のなかで衝撃と疑問が渦巻きました。   思いをめぐらすうちに、「進化的な見方」と「事後性」の比較になるような小さなできごとを思い出しました。

 

■病気を忘れられるか

もう10何年か前、サンネットを始めたばかりの頃。少女の面影が残るような女性が訪ねてきました。

彼女は、当時、ようやくひどい状態から立ち直った時期で、以前と比べるとずいぶんよくなったのだそうです。主治医の先生も親も「元気になったのだから病気の時のことは忘れなさい。前に向かって進みなさい」と言うのだそうです。でも、と彼女はその言葉に考えてしまうといいます。それで自分の気持ちをわかってくれそうなところを探していたというのです。

彼女は「病気のことを忘れて、ないものにしてしまったら、私には青春がなかったことになってしまうでしょ」と話しました。青春はずっと病気と一緒にあったのだから、私の人生の大切な部分が空欄になってしまう、と悩んでいたのです。

話を聞いた私たちは、彼女の気持ちがよくわかりました。

過去は過ぎたもの、過去を踏み越えてこそ未来があると考える「進化的な見方」であれば、病気の時代にこだわることをやめて、前に進まねばなりません。

でも、「事後的に振り返りながら繰り返すようなあり方」が人間の本質であると考えるならば、彼女の悩みは当然です。彼女は病気の時代を振り返り、その時代と現在を含みこんで未来をめざすことが求められていることになります。

病気の時代を消してしまうか、そこを振り返るか。ジジェクによればそれは選択の問題ではなく、振り返えざるをえない人生の本質的なあり方の問題である、となるのでしょう。先生や親の言い方は、本質からはずれた「倒錯」と批判するかもしれません。

 

■過去も未来も私

べてるの家には有名なキャッチフレーズがたくさんあります。それまで一方的であった精神病の見方、治療観を一変させました。豊かな実践から練りだされたべてる流のフレーズは、病気を生き生きとしたもの、豊かなものに描きなおしました。

そのフレーズのなかでも、「勝手に治すな自分の病気」、「べてるに来れば病気が出る」、「べてる3年漬け」、「病気は宝」などは、「事後性」の問題と関係がありそうです。病気がよくなっていくとき、病気を忘れて前に進むのではなく、むしろ忘れていた過去の病気も出てくる。仲間と分かち合って越えていくもの、むしろ仲間とつながる「宝」なんだ、という考えです。ここでは、過去は捨て去るべきものではなく、今を理解するための「宝」ということになります。

このべてる流の考え方、べてる流の「世界」をふまえて、「進化的な見方」という問題に立ち戻ると、それはずいぶん狭い見方だったことに気づきます。

「過去」から遠く隔たったが、未来がまだ見えない「今」があって、目の前の選択肢を選択することが、自分のかかわれることがらである、と描くのが「進化的な見方」です。この世界で孤独に存在しなければならないかのようです。

弁証法的な論理が始まりだったかもしれませんが、現代は、「進化的な見方」がより単純化し、「選択だけが未来を決定する」という感覚が支配しています。PCやスマホの日常、流動化している労働や地域社会、クラウド情報とタックスヘブンマネー…。この流動的な世界の中で、個々人の選択は世界と強いきずなを結びつけるためのものではなく、嵐の中を進む船のように沈没を免れるために右に左にかろうじて舵を取るための選択のようです。

「事後性」という考え方のすごいところは、この「選択が未来を決定的に決める」という考え方に、「それだけがすべてではないよ、別のとらえ方もあるよ」と変更を迫るところなのではないでしょうか。それは、孤独な世界観からの脱却にもつながるのではないだろうかと思うのです。

「事後性」をしっかり使えるようになるには、時間がかかると思います。しかし、うっすらとおかしいなあと思い続けてきた「進化的な見方」を、問い直すことができる素材があるんだと知ったことは、私にとって喜びです。

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