なんとなくサンネット日記

2015年11月30日

保護色

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:57 PM
さあ、魂の海へ

さあ、魂の海へ

佐久間の調子はかなり悪い。なにより怒っていた。彼の思考は怒りの推進力によってあちこちに飛び火した。

障害福祉サービスの管理者に食ってかかったが、理由は、三日前、彼が夜中に電話をしても、管理者が駆けつけなかったからだ。

管理者の妻が駆けつけ、長い時間話したのだが、彼の怒りの軽減にはならない。佐久間にとって、長年の信頼を損なう、許しがたいできごとだった。

しかし、今日は大学の看護学生への講演にいかねばならない。予定では、佐久間を含めて4人のメンバーで学生に語り、大学までの往復は管理者が車を運転して、授業では司会をする。そういう役割になっていた。

講演できる状態か、佐久間以外は皆、悩んでいた。それで事業所から出発することができなかった。

佐久間は、他の3人のメンバーに向かって、今日は映画「猿の惑星」の障害者バージョンを話すといきまく。映画では人間が猿に支配されているように、障害者が支配されていることを話すのだという。

支配者とは、管理者という個人のことか、普通名詞としての専門家なのか、それとも猿なのか、わからないが、もっともなストーリーだ。しかしそれを精神科看護の授業においてどのように位置づけたらいいか、管理者は困っていた。さらに考える。

…話したい内容はあいまいでも、佐久間さんには、大学に行きたい、講演したいという思いがあるのは確かだ。それに一緒に行くメンバーはベストメンバー。ならば、彼に思いを断念させ、不満を膨らませながら一人ぼっちになるより、仲のよいメンバーと時間を過ごした方がいいかもしれない。彼らは佐久間さんをカバーできるだろうし…。

「佐久間さん! みんなといっしょに行こう。話す内容はその場で考えたらいいよ」

 

皆で7人乗りのレンタカーに乗り込む。

管理者が「どの席に乗る?」と佐久間に聞く。

いつもなら、道に詳しい佐久間が助手席に座ることになる。今日はそうはいかない。反発を感じている管理者の横には座りたくない。

「佐久間さんが決めた方がいいよ」。メンバーの関本も応援するように言った。

「うーん。関本さんが助手席に座った方がいいだろ。その方が菊谷さん(管理者)もいいだろうし」

それを聞いて、メンバーの紅一点、初子はとっとと後部席に乗り込む。

物静かな持田が真ん中の列、運転手の真後ろに乗り、いちばん最後に佐久間が乗り込む。

大学まで1時間あまりのドライブだ。車内は佐久間を気づかい、地味な雰囲気になる。

それでも誰かが「たまに外に出かけるのもいいな」という。反応はない。

しばらくして、また誰かが「景色、きれいだな」とポツリという。しかし途切れる。

佐久間は黙っている。はずまない雰囲気でも、気心知れた仲間だから気まずくはない。

静かにしながら、佐久間はどこか落ち着いてきた。

20分くらい走ったところで、管理者が佐久間に話しかけてみる。

「佐久間さん!リハビリテーション研究会に参加するため、昔、この道をよく二人で走ったね」

佐久間は、うーんと答えながら、あるエピソードを皆に聞かせたいのか、話し始めた。

研究会の打ち上げでどこかの中華料理店に入った。フカヒレスープが出たが、管理者はそれが苦手なので、佐久間が代わりに食べた。さらに彼はお代わりもした。なぜ管理者はフカヒレが苦手になったのか、その由来は…。

彼の声のトーンは、出発前のトゲトゲした部分がなくなり、丸みを帯びた。

管理者は運転しながら、彼が落ち着いたことを背中で感じた。

途中の道の駅でトイレ休憩。他のメンバーと談笑する佐久間はどんどん落ち着いていく。

病気の上昇気流はどこかでピークを越え、トンビのように旋回すると、ハンググライダーが下降するように、ゆっくり下がってくる。

大学に着き、教師と待ち合わせまでの時間つぶしで、近くの寺を15分ほど散策したのも良かった。あとは、スムースに進んだ。控え室で教師を交えて小一時間おしゃべりし、講演をし、佐久間はかつて病院で世話になった元看護師の教師とも再会する。その教師は、佐久間が来るというのでわざわざ講座に参加したのだ。うれしい再会だった。

帰路、ラーメンを食べて車を走らせた頃には、初夏の夕闇の中だった。

「佐久間さん! 越えたベー」と突然、関本が言った。病気の危機的状況をやり過ごしたね、ということだ。

佐久間はそれを受けて話した。

「うん。山田先生がいっぱい話を聞いてくれて、うれしかったし、先生になった高橋さんもいたから、あの人はもともと優しくて…」

それを聞いて管理者はビックリする。なにより、仲間といたから落ち着いたはずなのに、佐久間のなかでは、それは見えなかったということではないか。

他のメンバーは何も言わず、落ち着いた佐久間とあれこれおしゃべりをする。

山側の有料道路を通り、関本と初子はグループホームで降り、佐久間はアパートまで送られた。

車を降りた佐久間は、さっと振り返っただけで、にこやかにドアの中に入っていく。つまり、今日のところ、彼は「越えた」のだった。

 

 

私は、佐久間さんがなぜ落ち着いたのか、その“メカニズム”を考える。

佐久間さんは、山田先生と高橋先生が助けになったと感じた、そのように見えている。

ところが、関本さん、持田さん、初子さんの存在が大きいと思える。彼らがそばにいるだけで、(車内では仲間に囲まれるような位置にいた)どんどん落ち着いていった。このことが佐久間さんには見えない。本人に「見えるもの」があるが、大きな効果を生み出しているけれど「見えない」ものもある。このギャップをどのように説明すべきなのだろう。ここには考えるべき重要なものがある。

こんな喩えの説明はどうだろう。

カレイやタコ。カメレオンなどには保護色という防衛機能がある。佐久間さんへの仲間の働きかけを、その保護色が働く環境のように考えてみたい。周りに、落ち着いた仲間が寄り添う。すると苛立っていた本人が同調する。自分の色合い、模様を、仲間に合わせて変化させる。すると身体が落ち着く。変わった自分の模様を自分で見ることはできないように、本人にその落ち着きは「見えない」。

身体が落ち着いた本人の前に、その人の利益になるような人が現れる。今回は、それが山田先生と高橋先生だった。たくさん話し、懐かしみ、心が落ち着く。本人もそれをしっかり感じたので、頭で納得し、心もストント落ちていく。これは彼にも「見えた」。

この「見えない」という現象には大きい意味があるのではないか。ある一方の同調しようという意識から生まれ、本人によりよく働く「それ」は、仲間の相互関係のなかで大きく育つ。「見えない」から、語られにくいが、「それ」とは共同した主体性であるかのように、私には思える。

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