なんとなくサンネット日記

2014年12月15日

だから

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 7:33 PM
いつか来たところ

いつか来たところ

秋葉原無差別殺傷事件の被告、加藤智大は、『殺人予防』(批評社、2014年8月)を今年の夏に出版した。4冊目になる。

本の帯には「間違いだらけの『有識者』たちの『有識』を糺す」とある。

 

(誤)                                      だから事件を起こす。

(正)事件を起こせば           

 

とも書いている。そして、加藤被告は彼独特の論理を展開するのだが、その論理についてぼくは考えている。奇妙だと思っているのであるが…。

彼が言いたいことは、「加藤被告は社会に絶望した」「だから事件を起こした」、などとそれらしく説明する有識者は誤っているということである。学者や評論家が「精神的な未熟さ」「他罰的な性格」「非正規雇用」「人間的つながりの不足」などと、いろいろな概念でいじるが、それはやめてくれ!とでも言っていると思う。

彼は、自分の人間的なあれこれを詮索しなくても、外形的な因果関係を押さえれば事件を予防する糸口がわかるはずだと主張する。その論理とは「だから」にまつわることだ。

彼は言う。

暗いから、電気をつける。という文章は

→電気をつければ、暗くなくなる。と反転できる。

 暗いから不自由(A)という状況は、電気をつける(B)という行動によって、明るくなる(C)。

空腹だから食べる。 →食べれば空腹でなくなる。

汚れたから洗う。→洗えば汚れが落ちる。

このように、(A)+(B)=(C)がなりたち、ゆえに反転可能である。

この反転可能性は、正確な因果関係の証明であって、この因果関係をきちんと組み立てれば人間の行動を変化させることができるはずだ。

ところが、

精神に障害があるから、意味不明な言動をする。という文章があったとすれば

→意味不明な言動をしなければ、精神の障害がなくなる、と反転はしないではないか。

 ということは、精神障害と意味不明な言動は正確な因果関係ではない、というのだ。(p172-173)

さらに、意味不明な言動があるから精神障害といっているだけであり、精神障害は概念であり、実体ではない。聴覚障害も耳が聞こえない症状が表れている人をそういっているだけで、耳が聞こえない原因が聴覚障害ではない、と彼の主張は徹底していく。

加藤被告は、人間の内面的な働きを表すいろいろな認識、概念を一切否定し、人間の外部に存在する因果関係だけで説明しようとするのである。想像力も、意志も、共感、暴力、忍耐…そういったことのすべてである。

ただ、「だから」という言葉のことにたち返って考えれば、この論理にはむりがある。「だから」「それゆえ」という接続詞が、かならず、(A)+(B)=(C)という方程式が成り立つわけではないからだ。(A)+(B)=(C)という式は、(A)が(C)になる変化に、主体の(B)という行動が働いており、そのため(B)を軸に反転可能性が生まれるのである。

ところが「精神に障害があるから、意味不明な言動をする」という文章は、それとは違う。「彼はエリートだから、なにかと鼻にかける」、「春だから、畑に種をまく」などと似ていて(A)=(C)、ないしは(A)→(C)という形であり、(A)が(C)になる、主体の(B)行動はない。だから反転しないだけである。

加藤被告は、最高裁に上告中している。棄却決定が出れば、死刑が確定する。いつそうなるかわからない状態だ。だから、奇妙な彼の論理は、ふざけた結果などではない。この本が最後になるかもしれないという緊迫した状況で精いっぱい書いたのだろう。「加藤智大は…だった、だから犯罪を犯した」などと堂々めぐりの議論はやめてほしい、実効ある「殺人予防」をしなければならない。だから、この因果関係を基本にした考え方をもってほしい、そう言っているとぼくは思う。

彼流の遺言のつもりかもしれない。

しかし、それでも、自己の内面を語ろうとしない、あるいは語れないところに、事件の原因があったのだろう。彼が言ったところに「予防」があるのではなく、語ろうとしなかったところにそれがあると思うし、それはぼくのなかでますます確信になっていく。

加藤被告は母親の虐待について、今まで書かなかったことについてふれた。彼は言う。

――私は、母親の自分への仕打ちが不満でした。脳みそを使っていない「有識者」であればすぐに「他者への不満→殺人」と結びつけるところでしょうけど、不思議なことに、私は母親を殺そうと思ったことはありません…よくよく考えてみると、私は「母親の仕打ち」に不満があるのではなく、「母親の養育を受けた自分」や「母親の犯罪行為が隠蔽されていること」に不満を持っていたのでした--。(p210)

ここには、母親に愛されなかった悲しさ、母親に変わって欲しいと思う切なる願い、どこかで愛し合える親子になりたいという希望が隠されている。どこか見えないところにくるんで、文字の果てにしまいこんだのかもしれない。彼は彼なりの誠実さでことに臨もうとしているだが、心の真実は闇の中に沈んでいくような気がする。

(彼は弟が自殺したことを知った上でこのように述べているのでもある。)

しかし、それにしても、彼の著書の4冊を通して思うのだが、外部に向けて語ろうとすればするほど、彼は自分の殻を固くする。彼のなかにはそういう傾向があるのだろう。

もう一つ、重要なことは、彼の論理に共鳴するたくさんの人がいるということだ。「なぜ彼は(私は)この事件を起こしたのだろう?」と考えるのではなく、「どうのような方法があれば、ここに至らなかったのだろう(あるいは、至ったのだろう)」と考える人々が多くなっている。

自分の内面を見ようとしない。つまり、探求すべきことが自分のなかにはないとする指向は、ある種の少数の人のものではなく、「普通」のことになろうとしている。これはどのように理解すべきだろうか。それがもう一つの大きな問題だと思う。

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