なんとなくサンネット日記

2014年4月30日

借りを返す、父母未生以前は?

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 5:13 PM
ずっと向こうに八甲田山

ずっと向こうに八甲田山

『借りの哲学』(ナタリー・サルトゥー=ラジュ、2012、高野優監訳、小林重裕訳、太田出版、2014年邦訳)。東奥日報に書評が載った。読んでみるととてもおもしろかった。

■借りの哲学

 著者のサルトゥー=ラジュはフランスの哲学者、作家である。「ネオリベ(新自由主義)批判の一種」(千葉雅也氏:共同通信社の書評者)という評価があるが、それにとどまらない思想的な広がりをぼくは感じている。

 彼女が提示する「借り」とは、「負債」だけでなく「恩」や「負い目」も含む、広い概念だ。このキーワードで、聖書の話やシェークスピアのベニスの商人を読み解き、現代社会を考え、豊かにつながりあう未来を展望しようとする。哲学、社会学を駆使するが、くだけた進みかたでとっつきやすい。

 しかし、一般に、「借り」(借金、恩義)というと、あまりしたくないもの、避けたり、そのままにしておきたくないものである。ネガティブな響きがある。

 サルトゥー=ラジュは、人は誰も「借り」をもつ存在だという。「借り」があるから生きている、そのことに気づけば感謝が生まれ、「借り」を返そうとする。そうすることで、社会は失われたつながりを回復する、と。まるで、地縁、血縁の “縁”のような考え方ではないか。

 「借り」という言葉をネガティブな先入観でしばらず、ややポジティブに受け止めながらこの本を読むと、いろいろな気づきが得られると思う。

 

■モースの贈与論

 「借りの哲学」はマルセル・モースの「贈与論」が下敷きだ。

 マルセル・モースは20世紀の前半に活躍したフランスの社会学者、文化人類学者。「贈与論」(1925)は、その代表作である。

 (贈与論)のなかで(モースは)…「原始社会においては、生産物が単純に交換されることなく、経済的な事物のほかに、饗宴、儀礼、軍事活動、舞踏、祭礼…などが部族と部族の永続的な契約の一部として、全体的に交換された」…すなわち、経済のみならず、宗教、道徳、文化などあらゆる分野で、《贈与》の《交換》が行われる(と述べている。)…モースはこの《贈与交換》のシステムを…市場の確立や貨幣の発明に先立つものであるとした。(p47-48)

モースは《等価交換》を原則として損得勘定ばかりを問題にする資本主義社会を批判し、経済よりもっとおおきな枠組みで人間社会を再構築するために、《贈与交換》のシステムを復活させることを強く訴えている。(p51)

 ぼくたちは資本主義社会のなかで生きている。コンビニに行って150円のコーヒーを買おうとしたら、レジで150円分の貨幣を渡して、コーヒーを受け取る。《等価交換》だ。貨幣で清算する。150円の貨幣は、盗んだものであろうと、だまし取ったものであろうと、売買自身に問題はない。清算したのだから恩や負い目を感じる必要もない。

 もっといえば、店員を勘違いさせて、金を渡さずに150円のレシートを得たなら、もう150円のコーヒーは自分のものだ。清算はすんでしまったのだから。

 ぼくたちはスマホやPCで情報を得ては、飛行機や電車の予約をして、切符を買って移動する。家や車も買い、エステや学校の授業料も支払う。恩や負い目などの「借り」にしばられることなく、自由に活動する。でも、その自由さには不道徳なものも入りこんでしまった。ちまたには、「自分には《借り》がない。今の自分が持っているのはぜんぶ自分の力で得たものだ。だから人に分けてやる必要はない」(p26)と信じている人間がたくさんあふれた。

 モースの「贈与論」は、《等価交換》によって生じたこのような問題を指摘し、越えようとしているのだ。

《等価交換》が奪ったもの

 これはよくある話である。ある工場の年配労働者が、あまり仕事のわからない若い労働者に、仕事のあれこれや心構えなどを教えてやろうと考えた。ある日、年配者は仕事の終えた後に若者を酒に誘う。「今日は急いで帰るのか?よかったら飲みに付き合わないか?」。すると、若い労働者はたずねた。「残業ですか?それともおごりですか?」と。

 仕事の延長なら残業代が支払われるべきだろうし、個人的な交際なら御馳走すると言っているのだろうか、若い彼はそれを知りたいと思った。年配の労働者はそれを聞くと、やや考えていった。「いや、やっぱり、今日はやめておこう」。

 年配の労働者は、自分の「体験」を《贈与》したいと思った。自分が若い時代、先輩がしてくれたように。飲み代をどうするかという話ではなく、自分が先輩から学んだことや仕事のなかで得た知識を、若い人に与え返そうとしたのだ。ところが、若い労働者は、飲み代をどう清算すべきか(「飲むもの」と金銭の等価交換をどのようにすべきか)と考えていた。二人の考えがすれ違い、「体験」が《贈与》される「機会」と「場」は失われた。それは、その後何年も同じ状態だった…。

 このように、《等価交換》という考え方は、この社会から「何か」を奪った。ぼくたちは、このことに気づかなければならないし、「何」を、どのように取り戻すべきか、それを考えなければならない。これは急務だろう。

ニーチェの《負債》

 サルトゥー=ラジュは、次に、ニーチェを引く。

モースが経済活動を含む原始社会の人間関係の基本を《贈与交換》に求めたのに対して、ニーチェは《負債》こそがその基本だと考えた。…ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、ニーチェの『道徳の系譜』の影響を受けつつ、原始経済は…《負債》から説明すべき(と)言っている。(p53)

(ニーチェは)キリスト教では、人間が持っている原罪を…神の子であるイエス・キリストが身を持って引き受けたこと(贖罪したこと)によって、人間は生まれながらにしてイエスに対して《負い目=負債》があると考える。(p44)

負債という概念があることによって、人間は「道徳的な存在」になったと(ニーチェは)いうのである。というのも、「道徳的な存在」になるということは、要するに「約束を守る存在」になるということであるが、そのためには「記憶を持つ存在」にならなければならない…(負債があることによって)「借りたものは返さなければならない」」という意識植えつけ、「借りたものをきちんと返せる」ことによって、人間を「約束を守る存在」にしたのである…「約束を守ること」「責任を持つこと」(といった道徳の基礎を)…《負債》はその観念を育て、鍛えたのである。(p54)

 ニーチェは、負債を記憶すること、そしてその負債をきちんと返すことによって、信頼され、約束を守るという「道徳」が生まれたと考える。サルトゥー=ラジュは、ニーチェの《負債》の考えをふまえ、個人の「道徳」の基礎以上のもの、つまり社会の絆の基礎にしようと考えた。

 

■信頼があるから《貸し》《借り》がある

 モースの《贈与交換》とニーチェ《負債》の考え方を受け継ぎ、「借りの哲学」でそれらを拡充する。

ニーチェは「借りたものを返すことによって…信頼される存在になる」といったが、…(モースの)《贈与交換》における「信頼」はニーチェの言うものとはまたちがったものになる。それは「あらかじめ相手を信頼する」ということだ。「貸したものが返ってきて、はじめて相手を信頼する」…のではなく…返ってくる前から、お互いに相手を信じることなのである。

…だが、私たちがめざすのはもっと相手を信頼する社会である。また、相手の方も私たちを信頼する社会である。時によって、《貸し》をつくったり、《借り》をつくったりしながら、関係を続けていく。この関係には終わりはない…自分が何を与えられたかを十分意識し、そのお返しに何を与えるかを考える…ひとりひとりが《借り》があることに自覚を持ち、その《借り》に対して責任を持つ社会を目指すべきなのである。(p58-59)

 信頼に裏打ちされた《借り》とは、ゆっくりと、責任をもって返すべき自分の目標である。詳しく紹介しないと《借り》概念が信念論のように受け止められるかもしれないが、現代社会の課題や学問の歴史を踏まえた確かな「ビジョン」だとぼくは思う。適用力のある、拡張性のある考え方だ。

 

■《借り》を否認するあるタイプ

 本はいろいろなところで新自由主義的な人々――自分には《借り》がない。今の自分が持っているのはぜんぶ自分の力で得たものだという生き方をしている人々――を戯画的に描いている。

 《借り》を拒否するタイプを大きくわければ、《借り》の存在を認めない人と、《借り》から逃走する人がいる。そして、後者には機会主義者(オポルチュニスト)がいるという。機会主義者は、日和見主義ともいい、定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利なほうに追随しようとする姿勢のことだ。サルトゥー=ラジュは、ネットワーク社会の誕生によって生まれた、《借り》を拒否する新しいタイプだという。これが実に興味深い。彼女は次のように述べる。

機会主義者には、信念というものがない。また、自分の能力を伸ばし、成長して、自分の価値を高めようという気持ちもない。ただ、「機を見るに敏」というか、機会を利用して、自分がもうかればいいのである。(p194-195)

ネットワーク社会から多くのものを借り、それによって自分の利益をはかりながら、その《借り》を返さないというかたちで生きつづける。(p195)

機会主義者は、コンピュータと一体化したように、金儲けの部品となって、ひたすら利益を追求していく。その代表が株の売買によって利益を得るトレーダーである…どの株があがるか、どの株がさがるか、ネットワーク上からいちはやく情報を仕入れ、それをもとに利鞘を稼いでいく…そこには、現実の社会と関わり、社会を少しでもよくしていこうという意図は存在しない…自分の行動が社会に何を及ぼしたのか、その《責任》については、全く考えないのである。(p199-200)

機会主義者は、ある集団に属しても、そこでつくった《借り》を十分、返さないまま、別の集団に移るというかたちで《借り》から逃れてきた。だが、それぞれの集団には《借り》が残っている…そして、もはや新しい集団に移ることができなくなったら…《借り》はいつかは返さなければならないのだ。(p201)

 このようなタイプの人たちは、内面に大きな孤独をかかえこむ。彼らは不平は言うが、感謝できない。不平と孤独は、「否認」という壺の外側と内側のことかもしれない。その壺は何も満たされてはいない。

 

■《借り》がある

 さて、《借り》について考えることは、現在いろいろなところで問題になるフリーライダー(タダ乗り)の問題を考えることにもつながる。論理的には一見不思議だが、《等価交換》がフリーライダーを増やしていることに気づく。文化、宗教、道徳、信頼、愛、絆…そのようなこの世界のありとあらゆることから、経済=市場だけを独立させ、優位な地位を与えたモノの考え方に、フリーライダーがひそんでいた。清算が関係のすべてで、利益優先が価値の第一位であれば、もっとも利幅が大きくなるのがフリーライダーだ。《等価交換》の論理の終着駅で、フリーライダーたちが必ずたむろするのはあたりまえのことだ。

 《借り》がある、と考えることは、経済=市場の考え方をテコにしつつ、この世界のあらゆることをむすびつけようとすることだ。フリーライダーたちがあらゆることを切り捨てようとすることの逆方向を歩む。

 書評者の千葉雅也氏(立命館大)は《借り》があると思うことに苛立ちを感じている。彼は書評の最後に、「(この本は)私たちには『生まれながらの借り』があると強調する。なるほど、私たちは、生まれる前からあった資源に頼って成長していく。しかし命はどうだろう。この点をあらためて考えさせられた」と記して、結んだ。

 千葉は、こう問いかけたいのだろう。社会から与えられたものを、社会に貢献することで社会に返すのはわかる。しかし社会的構造物ではない「命」、それ自身は物質世界なのだ。どのように返すというのだろうと。

 生命の問題と社会の問題をつなげようとするところには、論理的なギャップがあると言いたいのかもしれない(彼の批評はあまりにもツイッター的すぎてぼくには不満がある)。

 人として、自分の「命」をかかえて生きるとき、その私の命が《贈与》や《借り》によって、この世に生れ出てきたと感じることは、論理的な態度でないが、生きる上で必要な構えだと思う。この構えは、心の内側にいろいろなつながりを巡らし、生きている実感を支えるだろうから。

社会との関わりを絶ち、自分のなかに閉じこもって、ひたすら自分の欲望を追求する社会は、決して個人の内面を豊かにしてはくれない。反対に貧しくなる一方である。というのも、人が成長し、内面的に豊かになろうと思ったら、他人と関わることが必要だからだ。内面のない個人は、ただの空虚な入れ物でしかない。(p180)

だが、人間は「自分は空虚だ」という恐ろしい現実に向きあいたくない。だから、何もしないで、自分と向かい合っていることもできない。そのため、一時の「快楽」に走って、自分が空虚であることも、社会に《借り》があることも忘れようとする。(p183)

 このようなことを考えていくと、つい、秋葉原事件の加藤智大被告を考える。空虚な自分に向き合うことに恐怖感を感じていたのは、彼もそうだったからだ。彼は命を《贈与》されたものであったり、《借り》があるものだったりとは思えなかっただろう。自分が生まれる前、自分という命を与えたモノ、命が生じたデキゴトは想像できなかったのではないだろうか。ぼくはそう思う。彼の短い人生は、《借り》を否認し、逃走する歴史だったし、命を実感できなくなり、事件に結びついていった。

 彼も機会主義者の一人だったかもしれない。

 さて、《贈与》や《借り》という見方でものを考えていくことは、社会のさまざまなことをむすびつけ、未来を描くことである。そして、自分の命の根源を考え、信頼や愛をとらえ返すことなのだ。このような考え方を受けて、「福祉」について考えてみる価値はあると思う。長い間、「福祉」は経済学や《等価交換》で語られすぎてきた。もうそろそろ別のアプローチも必要だろう。

 でも、もう、いくつかの営みが生まれているようだ。それが楽しみだ。

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