なんとなくサンネット日記

2014年3月28日

遊びは協力的

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 3:01 PM
おいしいものがあるかな

おいしいものがあるかな

 ここまで、わかった、驚くほど、豊かな、動物たちの、感情世界―‐と本の帯にあります。

 『動物たちの心の科学』(マーク・ベコフ、2007、訳者高橋洋、青土社、2014)は動物の情動について扱った本です。

 次のできごとは彼の学生が観察したことです。

--今日、体重およそ50kgのマラミュート犬の愛犬タロウが遊んでいました。タロウは自分の大きさの四分の一くらいしかないチビという名の変わった犬と遊びたがったのです。タロウはプレイバウをしました。プレイバウとは頭を下げ、お尻をあげて遊ぼうと誘う仕草のことです。

 タロウは吠え、尻尾を振り、仰向けになって転がり、突然立ち上がり、もう一度プレイバウをしました。ところが、チビはそれにまったく応じません。無関心な様子をして立っているだけだったのです。

 1分ほど時間が経過し、どこかの大きな犬が放尿したばかりの茂みをタロウが嗅いでいると、チビがぶらぶら歩きながら近寄ってきて、タロウの首にかじりついたのです。そのとき私は「やっちまっちゃった。こいつ、タロウに殺されちまうぞ!」と思いました。

 ところが、タロウはハエを追い払うかのように肩越しに払いのけ、振り返ってプレイバウをしました。そして、この小さな犬の頭を持ち上げてそっと口に含んだのです。

 それから30分間、二匹は一緒に遊び、そのあいだタロウは決して独断的な態度をとったり、不公正に振る舞ったりはしませんでした。チビをそっと噛み、軽くたたき、転がり、前足で顔をさわっていたのです。遊びが少々荒っぽくなると、チビは尻尾を垂らしながら後ずさりをし、やり過ぎたかどうかを確かめるように頭を左右にかしげました。するとタロウはもう一度プレイバウをし、二匹は遊びを再開しました。

 どうやらタロウは、この小さな仲間と遊ぶためには相手を気遣い、公正に振る舞わなければならないことを知っていたようです。二匹は互いに相手のしたいことを知っていたのです。そして協力しあいながらそれを手に入れたのです。イヌとは何と賢い生き物なのでしょうか。自分の目が信じられないほどでした。(P157-159)

 この観察はいきいきとした素晴らしい観察です。(原著はタロウの名はジェローム、チビはファードですが、「日本名」にし、やや省略しています)

 マーク・ベコフはこのことから次のように述べます。

 動物が遊ぶときには、その旨に同意しなければならない…公正に振る舞い、協力し合う…協力の言語は、誰にでも簡単に見分けられる。…協力的で公正な関係が損なわれると、遊びは中断するばかりでなく、継続不能になる。非協力的な遊びなどというものはない(P159)

 遊びが成立することによって、社会的な規範の土台をつくることになるといいます。信用、協力、礼儀、公正、寛容、謙虚、共感、正義…といった構成要素が、ベコフのいう道徳性をかたちづくるのです。

 美徳、平等主義、道徳性の起源は、人類よりも古い…しかしもっと重要な指摘をすると、動物の寛容、公正、信用、協力についてもっと学ぼうとすれば、おそらく私たち人間も。より思いやりに満ちた協力的な社会を営んでいけるようになるのではないだろうか。(p182)

 遊び→協力・共感→公正→道徳性というふうに立ちあがっていくのですね。これは興味深い指摘です。

 私たちの社会には、いじめがあったり、欺きがあり、そして他者にたいして不寛容で拒否的なムードが広がっています。しかし、その根っこにあるものは、協力して遊ぶ(ベコフに言わせれば同義反復でしょう)ことがむずかしいという現象なのかもしれません。

 「遊べない私たち」が多くの問題を生み出してのです。協力・共感できないのではなく、遊べないのですね。いま、真に遊ぶということが求められているのでしょう。そしてそれがよき社会づくりに関係させていく。

道徳の奥に遊びがあるっていうイメージはいいなあ。でも、協力して遊べないでおかしくなったできごとって、たくさんあったよなあ…。真に遊べるまで、不幸なこと、残念なことは避けられないのだろうか?動物に学ぶことはたくさんありそうです。

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