なんとなくサンネット日記

2013年10月28日

たずねし人

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 5:18 PM

いつか通った

先日ラジオ深夜便で、石川さゆりの♪「君の名は」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)を聞ききました。

この歌は、同名のラジオドラマの主題歌。あらすじはこんなぐあいです。

――第二次大戦、東京大空襲の夜。焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま一緒になった見知らぬ男女、氏家真知子と後宮春樹は助け合って戦火の中を逃げ惑ううちに、命辛々銀座・数寄屋橋までたどり着く。一夜が明けて二人はここでようやくお互いの無事を確認する。名を名乗らないまま、お互いに生きていたら半年後、それがだめならまた半年後にこの橋で会おうと約束し、そのまま別れる――(ウィキペディア)

昭和27年にラジオドラマになり、その後何度か、映画やTVドラマになります。主人公の真知子と春樹は会いそうで、会えなくてドラマは展開します。

昭和37年にTVドラマ化されたのですが、たぶんそれは東京放映。何年後かわかりませんが、ぼくは再放送を見たと思います。毎回、冒頭に流れるナレーション、「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」、これが好きでした。TV局には「真知子はどこどこにいるから、そこに行ったら会える」といった手紙が、春樹宛てで来ていたそうです。

平成3年、NHKの朝の連続ドラマにもなりました。歌手の石川さゆりが主題歌を歌いました。

君の名はと たずねし人あり
その人の 名も知らず
今日砂山に ただひとりきて
浜昼顔に きいてみる

 歌詞から時代を感じますね。

現代の真知子と春樹なら、当然、メールアドレスや電話番号を交換して別れます。朝に夕にメールを送り、返信して、いさかいをしたり、熱くなったりして、半年後を待たずに、二人なりのドラマが生まれることでしょう。私たちは「生き別れ」のない時代を生きているのです。

でも、別れたあと相手は消えて、あてのない世界にいってしまう、「生き別れ」などは掃いて捨てるほどあって、日常の生活のすぐそばにそれは存在している、そんな時代を懐かしく感じます。消えていく世界があって、それを感じあいながら生きる生き方がある、それがいいなあと思うのです。

よく時代劇ににあります。暴漢に襲われそうになっている娘さんのアレーという声を聞きつけて、通りがかりの若い男が、何してやがるんでぇとか言ってかけつける。そして悪い奴をやっつける。「お嬢さん、大丈夫でしたか」と声をかけながら、立ち去ろうとする。娘さんは「危ないところ、ありがとうございました。あのう、せめてお名前を」と問いかける。

すると「名を名のるほどの男じゃありませんぜ。それじゃ、これで失礼しやす」。

お決まりのセリフです。しかし子どもの頃はかっこいいなあ、と思ったわけです。この絶滅危惧種的「かっこよさ」は、消える空間(舞台でいえば袖のような空間)があって、消えるけどどこかにいるという集団意識があって、成り立つものです。

ですから、その逆に、その空間から現れれば、「む、む、む。猪口才な小僧め。名を! 名を名のれ!」、「赤胴鈴之助だ!」などとなって、ジャーン、始まり始まり…となるのです。

この間合い、消える空間が、「いま」を際立たせ、エッジをかたちづくったのでした。でも、これは60年代まで。

80年代になると「24時間戦えますか」となりました。現実の東京も不夜城です。

さらに、いまやネット時代。ほんとうに24時間の戦い。24時間がんばるのは投機関係などの専門家だけではありません。友人関係すら、メールやメーリングリスト、掲示板などで日常的に延々もめたりするようになりました。24時間ずっと消えません。息がつまる時代です。

この消えない空間は、何かを、本気で消してしまった…ぼくはそう気づくのです。

 

万葉集の歌です。

たらちねの 母が召(よ)ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか

 道行く若者に名前を尋ねられました。教えてもよいのですが、どこの誰かもわからないあなたに、母親が私を呼ぶ本名をとても申し上げられません。(『言霊とは何か――古代日本人の信仰を読み解く』、佐佐木隆著、中公新書、2013年、p189-191)

人間世界のある部分、消える世界は万葉の時代からあったのですね。

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