1995年頃だったと思う。ぼくが勤め始めたばかりの病院の同僚に丸石さんという人がいた。30代半ばの男性で、看護職からケースワーカーになった優しい性格の人。当時ぼくは44歳。
病院には6人ほどのケースワーカーがいたが、男性は彼だけ。女性陣がリーダーシップをとっていたが、それを気にするような人ではなかった。そこに年上のぼくが、しかも新米として入り込んだものだから、安定していた人間関係は複雑に変化しなければならない。丸石さんばかりか、みなさん、そうとう気を使った。
丸石さんは、地域の集まりにぼくを誘ってくれた。車の行き帰りなどで話をし、親しくなる機会をつくってくれた。彼の心づかいはぼくにはとてもうれしかった。
そんな折りに、県の障害者のアート展が企画された。
丸石さんは、入院中のAさんの絵をアート展に出品させたいと言い出した。彼はこういった。「アート展のコーディネーターをしている県職員の方は『病院や施設でゴミと思われているような作品に光をあてましょう』と言っていたから…」。
ぼくはAさんを知っていた。たとえ、高尚な理念でアート展が開催されるにせよ、病棟から集めてきて、コーディネーターに見せようとしている「作品群」を眺めると、丸石さんのやろうとしていることに懐疑的になった。
Aさんはアニメ日本昔話から抜け出してきたような中年の男性。真ん丸い身体をゆすりながら、弾むようにデイルーム出てきて、歌うようにひとり言を言いながら、クレヨンだったかサインペンだったかで、カラフルな線画を数分で描きあげる。蝶々、花、草原…幼子が書きなぐったような「作品」。彼にとっても、病棟にとっても意味あるものとは思うが、はたして、りっぱな展示場に飾るに値するのだろうか…。
ところがコーディネーターと丸石さんが話し合うなかで、Aさんの絵は生まれ変わっていく。
コーディネーターの助言で、同じような作品を並べ、9枚くらいで一つの作品にする。すると絵と絵の間に、Aさんが歌うハミングのようなリズムが生まれてくる。リズムが聞こえてくる絵になってしまったのだ。
アート展は繁華街の一角で開催された。本格的な美術展示場だった。室内全体は暗くし、個々の作品に照明があたるように、天井に無数の小さな明かりが配置されていた。会場の入り口に、次のメッセージがあった。
■精神障害者の芸術について
「子供じみた行いも狂気も侮辱的な言葉ではない……。こうしたことはすべて真剣に受け取られるべきである。今日の美術を刷新するにあたっては、公のギャラリーにある美術よりも真剣に」。
このパウル・クルーの1912年の言葉には、二つの大事なことが含まれています。まず、精神障害者の美術は20世紀美術の展開において重要なものとなるであろうこと、そして、その重要性は広く一般に知られることはありそうになかったということの二つです。
本展とカタログが示すように、精神障害者の美術と独学の幻視者による美術――まとめて言うならば、強迫的幻視者の美術――は、実際今世紀を通じて美術の本流が移り変わる中で、決定的な牽引車となってきました。このようないわゆるアウトサイダーたちの制作するものに対する抵抗は、今なお強く残っているものの、彼らの作品はついに、それにふさわしい真剣な関心をもたれ始めたのです。 (『パラレル・ヴィジョン――20世紀美術とアウトサイダー・アート』モーリス・タックマン/キャロル・S.エリエル編、1993年 、日本語版監修世田谷美術館、淡交社)
つくづく、障害者とはなんだろうと思う。手帳、判定基準、サービスなどではないもの。もっと、人間存在の深い部分につながる何か。リズム、幻視、アウトサイダー、創造…。
Aさんの作品は、会場の中でも大きなスペースをゆったりと占めながら、あたたかな照明にあてられて、春のようなリズムを見学に来たお客に伝えていた。それを、ぼくは今もおぼえている。