なんとなくサンネット日記

2013年5月13日

言葉の先

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:00 PM

わが家の庭にも春

■対話

ある人から、ダニエル・フィッシャーさんの、対話の6つの基本原則という話を聞きました。ダニエル・フィッシャーさんは、統合失調症からリカバリーした精神科医であり、ワークショップや全国規模の大会も組織している人です。

① 深く、ともに聴くこと。

② 自分の考えは脇に置いておいて、十把一絡げの考えにとらわれないようにする。

③ 互いの違う点や見えない部分を尊重し、大切にする。

④ 深い真実から話す。心から話す。

⑤ 心と心のレベルでつながる。

⑥ 互いの人間性を充分に大切にし、私たちは対等であるということを理解する。

 これは、他者にたいする態度、人としてあるべき姿勢、人と人が結びあう原則です。この言葉は、深いレベルで理解しなければならないと思います。

にもかかわらず、私はこの言葉を教えてくれた人に意地悪な質問をしました。

「もし、この言葉の本質をつかんでいないのに、文字通りに振る舞っている人がいるとする。
私には、その人が真の対話を望んでいる人か、あるいは、そういうそぶりをしながら、自分の利益に執着している人か、見分けることができるだろうか」と。

 その人は、だまって聞いていました。(沈黙は私にとってうれしいものでしたが…)

言葉は、あるところまでは連れていってくれます。山に登るとき、あるところまでは車で行けるけど、その先は車を止めて歩いていかなければなりません。

同じように、フィッシャーさんのいいたいことも、どこかの地点で言葉という乗り物をおかねばなりません。
言葉の力の限界にたどりつき、言葉に結びつく思考方法も脇に置けば、その先にとすすめてくれる力、それは何でしょう。それはどこから生まれるのでしょう。

 

■悔いる

5月6日朝日歌壇にのった歌です。

 

なぜお酒のませなかったかくやみつつ父のさいごをいまだに想う (摂津市 内山豊子)

 

この歌を選んだ撰者、永田和宏さんは次のように評しています。

内山さんはなぜ最後くらいは望み通りにしてやれなかったのかと悔いる。しかし、人を逝かせて何一つ悔いることがないなどということは、あり得ないのだ。

 いなくなった人を悔いる。この営みの結末は、誰にも属しません。決して満たされることもありません。だからこそ悔いるわけです。

永田さんは「悔いることがないなどということはあり得ない」と言いきります。人を逝かせた人は誰でも悔やむものだし、人とはそういう存在なのだといっているようです。だからか、永田和宏さんの選は、内山さんが第二首、第一首も見取りについての歌でした。

 

ストローを麦わらと言ひ水吸いぬ最期となりし白き唇 (町田市 高梨守道)

 

命はてるとき、彼岸にむかったその人と、此岸に残される「私」は永遠に別れます。この別離にむきあうとき、思わず言葉を紡ぎます。言葉に、選者は言葉を重ね、そうすることで、言葉の先の世界をくっきりと描いているようです。

互いに言葉を重ねた者どうしは、真にその先を見ている者か、言葉だけをもて遊んでいる者か、やがて知るのかもしれません。

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