なんとなくサンネット日記

2013年2月23日

心に風があるなら

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 2:31 PM

吹雪のなか帰ります

大澤真幸の『生権力の思想――事件から読み解く現代社会の転換』(ちくま新書、2013年)がおもしろい。同時に難解で、細かなところがわからない。

ただ、かつて(20年くらい前)読もうと思ったのに、読み始めてすぐに挫折したミッシェル・フーコーの著作『監獄の誕生』の解説になったのはうれしかった。

人間の生を管理する権力。人々が、こういうふうにああいうふうに生きたいと思う時に、働く権力をフーコーは「生権力」と呼んでいます。この本では生権力をめぐって、管理、視線、身体といったテーマが取り上げられていました。

いろいろおもしろい議論がありますが、他者の心はどのようにわかるかという部分も興味深いものでした。

他者の志向作用は、否定的・消極的な仕方で(非)顕現する。すなわち、〈私〉は、他者の志向作用が、〈私〉の志向作用と拮抗するものとして発動しているのを直観するのだが、〈私〉が、それを直接に把握しようとするや――つまり〈私〉が自らの志向作用と同等の直接性においてそれを感覚しようとするや――、他者の志向作用は、〈私〉の捉えようとする作用から逃れていってしまう。(p199-200)

ぼくにはかなりちんぷんかんぷんです。志向作用とは心の働きという意味ですが、それにしても難解な文です。そこで、私なりの「訳」を考えます。

――「あなた」の心の働きは、私にわかりえないというかたちで、「私」の前に現れます。「私」は、「あなた」の心も「私」の心も同じように働いていて、影響し合っていると直観します。ところが、「私」の心(とその働きで)で、「あなた」の心(とその働きを)をしっかりつかまえようとすると、つかまえようとする動きの脇から、「あなた」の心は去ってしまう。

「同じ人間だから痛みも楽しみもわかりあえるよ」といいますが、「立場が違えばわかりあえないよ」とも言います。「渡る世間に鬼はいない」けど、「敷居またげば敵ばかり」なのです。どっちが本当なのでしょう。

つまり「〈私〉の志向作用が及びうる視野の領界外へと遠隔化していく」という形式で、否定的に与えられるのである。他者の志向作用は、〈私〉には「把握しえない」というかたちで〈私〉に現れるのだ。(p200)

――「あなた」の心は、「私」の心のはたらく領域の外に飛び出していこうとすることで…つまり、「私」の心には「把握しえない」という否定的な形式によって、「私」の心に現れるのです。

言いかえれば、他人の心はわかりえないと思うことが、他人の心を理解するということになる。そうともいえるかもしれません。

私の苦しみは他人にわからない、と思うことがあります。その気持ちが反発やあきらめからのものではなく、もう少し広い心になって「ああ、わからないけど、それでいいんだな、世界はそういうものなんだな」と思えるようになった時、急に心が通うことはあるものです。

だから、他人への愛は、自分の心から遠く去っていくものを愛しく思うもの。それは自分の身体から離れたところで生まれてくるもの、だから胸がチリンと鳴るような感覚は遠くの思いを受け止めているのかもかもしない…のですね。

わかりあえない、もう会えない、失ってしまったと、手放すことができなければ愛は芽生えず、手放した地点で生まれた愛が、失われたものと次元を超えて結びつけてくれる。そういう関係になっているのかもしれません。

人の世界には不思議な二重性がありそうです。

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