なんとなくサンネット日記

2012年11月28日

時計という言葉は、時計以外と区別する

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 3:04 PM

雪降りの朝

■ことば

 私たちは成長するにしたがって、自己と自己以外の区別をおぼえていきます。そして、日常的に言語を使うことが、その区別、分離にいっそう拍車をかけます。なぜなら、ことばには、そのことばとそのことば以外のものとを分離するという性質があるからです。

 たとえば、時計ということばを使うと、その時点ですでに、私たちの意思とは関係なく、時計と時計以外のものとが分離されているのです。ことばを使っていながらまったく気がつかないことからわかるように、わたしたちは無意識のうちに、このような言語の分離的な性質にならされ、ものはそれぞれバラバラに独立して存在しているかのような錯覚を、ごくあたりまえのようにもってしまいます。(『ゴータマ・ブッダ』羽矢辰夫,1999年,春秋社,p92)

 ことばには、今現在おこっているあらゆる出来事が、実際には緊密なつながりをもった全体の営みのなかで行われているにもかかわらず、それぞれがバラバラで孤立して存在しているかのような錯覚をもたらす性質があります。それぞれがそれだけで存在し得るかのように思わせます。(p166)

 これは羽矢先生の文章です。

 自己がかたちづくられるとき、言葉が大きな役割をはたしています。私たちは言葉でコミュニケーションし、記憶し、イメージを喚起しています。空気のない所で生きられないように、人間は言葉のない世界では生きられません。人間にとって言葉はすべてだと思えます。

 ところが、誰しもが人生のなかで、言葉で言い表せない場面に、幾度も遭遇します。ほとんどが生老病死にかかわるできごとです。そのとき、言葉より人生の方が広いという事実を思い知らされることになります。

 言葉のない世界が自分を覆ったとき、うちのめされた気分に陥り、闇の向こうから不安が押し寄せてきます。私たちは親からはぐれた幼子のようにおびえます。

 しかし、羽矢先生なら「その時こそがチャンス」というかもしれません。不安と悩みを見つめ、その奥底まで見ることができれば、ことばが私たちのものの見方、関係のあり方をバラバラにしてきたこと、バラバラになったあとに、組み立てられたことばの世界で私たちが暮らしていることが理解できるからです。私にはそんなふうに読めました。

■ホンモノ?

 作家の雨宮処凛が、反原発デモ体験と書籍「脱原発とデモ――そして、民主主義」、瀬戸内寂聴ほか、筑摩書房、2012)についてのエッセイを書いていました(『ちくま』、2012年12月号)。

 だから、わたしたちは語るのだ。言葉をぶつけ合い、確かめ合わずにはいられないのだ…血の通った、ホンモノの言葉が聞きたくて仕方ないのだ…私は言葉と出合いたかったのだ。本書で語られ、綴られているのは、決して「脱原発」だけではない。私たちがどう生き、どんな未来を望み、そして何を大切にしていくのか。何を愛し、何を憎み、そして一人の人間として次の世代にどんな責任を果たしていくのか。言葉の持つ力に、ただ圧倒された。

 私たちは福島第一原発がメルトダウンした世界を生きています。事故前と事故後は世界が変わりました。あの悲惨さ、凄まじさをまのあたりにした私たちは、この問題を越える強烈なものを求めています。

 人間がつくり、人間が招いた災害であるから、苦しみを越えるのも人間であるはずです。人間社会に何かを求めれば、それが「ホンモノの言葉」になるのはもっともなことです。雨宮の気持ちはよくわかります。でも、ブッダレベルの話になれば、「ホンモノの言葉」はありえません。言葉は鍵であり、その鍵で開いたこころが、ホンモノに近づいていくのですから。

 雨宮が「ホンモノの言葉」に出会ったのは、それを受けとめる雨宮に「ホンモノのこころ」があったからでしょう。

 「ホンモノ」を求める強烈な〈思い〉と、モノと関係をバラバラにする言葉の〈性質〉の間に、矛盾が生じるのです。ホンモノと思っていたはずなのに、こころが変化すれば、ホンモノはニセモノのように見えてきて満足できず、遠いところにあるはずのホンモノを探し始めます。

 ならば、いっそのこと「言葉なんてどうせ意味あるものじゃないよ」とクールに決めても、それもまたバラバラにする言葉の性質にとりこまれてしまっているだけです。

 人は、ほんとうにむずかしいパラドックスのなかで、悩み、もだえ、そして希望を託し、生き抜いているのですね。

(どうせ人間はバラバラな存在。利害で結びあう貧しい存在。不満に裏打ちされ、強いものを切望する人々の心に、「ホンモノ」らしいものを見せて、まとめ上げれば、たとえそれがささやかな夢であっても「しあわせ」というものだろう…と考える人は、強い存在かもしれません。こころと言葉の矛盾を、こころ自体をバラバラにすることで、言葉に沿って矛盾なく越えているのですから。いよいよ衆議院選が始まりますが、言葉ゲームに陥らないように願っています。)

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