なんとなくサンネット日記(個人ブログ) としおのつぶやき

2012年9月26日

ふれること

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:27 PM

昨日は雹が降ったのです

 摘菜修氏が、日本維新の会への痛烈な批判を寄稿していました(東奥日報9月23日)。摘菜修という人をぼくは知りませんでした。肩書には哲学者とあり、掲載されている和服姿の写真をみて、(申しわけないのですが)ちょっとひいてしまいました。

 さて、それは「大型識者評論、政権交代から3年」と題した記事です。民主党を北海道大学の山口二郎氏が、摘菜氏が日本維新の会を批評していました。有名な方なのでしょう。

 摘菜氏の批判はやや身も蓋もないような中味でした。「(橋本氏と維新の会のパフォーマンスは)要するに…適当なことを言って、都合が悪くなればタイミングを見計らって撤回する」という「劇場型」。

 つまり「橋下氏は…人気を集めるためには…平気な顔でうそをつく」人で、「天性のデマゴーグ(扇動的な政治家)」。「『いまの政治で一番重要なのは独裁』という橋本氏は、内部告発や密告を奨励してい」て、それでは熟議が成立する社会に至らない、という主張でした。

 日本維新の会が、摘菜氏の主張の通りかどうかはわかりませんが、こういった姿勢が多くの人々に受ける時代であることには同感です。

 自分の筋を通すことがだいじではないし、他者の関心を引くためには、怪しい情報もやりとりするし、かんたんに口にする…こんな風景がそこここにあふれています。

 もちろん、いつの時代だって、そんな面はあったと思います。「やまとごころ」といえばイコール武士道と思われるのですが、江戸時代以前のそれは、臨機応変で柔軟な世渡りのことをさしていました。筋を通そうとはせず、智に働かないし情にも棹ささないという構え、それは、世渡りのすべとして受け継がれてきたはずです。

 だけど、いまの「いい加減さ」は、世渡りではありません。世の中の「見方」「考え方」になっていることが怖いのです。世渡りなら自分の手と足の届く範囲のことだし、結果も自分が引き受けます。でも「考え方」には限界はありません。結果を引き受けることもなく、たれ流されているのでは…と。

 私たちの身体とこの世を離れた空間に、「ウソ」「デマ」が流通し、それをエネルギーとしつつ、肥大していく抽象的な領域ができてしまっている…そんなふうに感じられるのです。

 ところで、平原インディアンの教えがあります。教えは、このような時流とはまったく正反対の価値をさし示しているので、ちょっと書きとめておきたいのです。

 経験するということは、ふれて感じることだ…

 この世で人が平等に持っているものは、たった一つしかない。それは孤独だ。この地上に住む二人の人間に、何か共通するものがあるとしたら、それは孤独にほかならない。孤独はわれわれの成長の糧にもなれば、争いの種にもなる。愛も憎しみも、むさぼりも寛容も、すべてわれわれの、必要とされ愛されたいと思う孤独な心の中にあるのだ。

 われわれがその孤独から抜け出せる唯一の方法が、ふれることだ…。(聖なる輪の教え、ヘェメヨースツ・ストーム、阿部珠理訳、地勇社、1992年、P20-21)。

 わたしたちの社会のピンチは「ウソ」や「デマ」に晒されていることではなく、真実に「ふれる」ことをどこかの誰かに奪われていて、それで「ウソ」などを呼び込んでいることではないでしょうか。すると、「ウソ」や「デマ」を言わない、のではなく「ふれて感じる」ことをとり返すことを始めなければならないはず…。この行為は簡単ではないし、世の人の受けは悪いでしょうが、少人数で始めて、続けられることです。真実に、ふれて感じようとする…。

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