なんとなくサンネット日記

2012年4月14日

現実にむかって退却

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:08 PM
古川1丁目

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 大澤真幸著、『夢より深い覚醒へ――3・11後の哲学』(岩波新書、2012年)を読みました。テーマがテーマだけに、力をこめた著作だと思いました。

 ぼくは夢の話に興味がそそられました。そのことです。

 現実を結びつけている結び目は、夢のなかで、ゆるみ、ほどけます。

 現実は断片となり、拡散し、隠されていた本質は抽象化します。そして、強い風にちぎれる雲のように、夢の形はどんどん変わります。

 ぼんやりと揺れ動く影がかろうじて端(エッジ)がはっきりしてきたかとおもうと、再びぼんやりして、闇に消えます。突然、見知らぬシーンが立ちあがったと思うと、忘却していたはずのものがそこに端然とある、という具合です。

 見誤った幸福が突然の悪夢に変身したので、うなされたかと思った瞬間、現(うつつ)の隙間にひそんでいた予兆が尊大にそこらを喜び回っているので、がっかりするのです。 いつものドアを開けると、見知らぬ世界からの罠だと知って、驚いて目を覚ます…。

 夢には規則などないように思うのですが、夢を精神分析で着目したのがフロイト。大澤真幸氏は、パリ・フロイト派のジャック・ラカンの夢の解釈を、この本の最初で提示します。

 ラカンは、夢の内在的な力によって、人を覚醒に追いやると解釈しているそうです。夢で再構成された現実の本質の荒々しさは、耐えがたい圧力であり、夢見ている人はやむを得ず現実へと退却すると。

 「はじめは現実から逃避するために夢のなかに入った。しかし、夢の中で、彼はもっと恐ろしい、自分が普段は否認していた――十分に意識していなかった――真実に出会い、今度はそこから現実の方へと逃避したのである」(P6)

 現実の中で隠された「真実」は、夢のなかで再帰する第2の「真実」となるが、それに耐えかねて現実に戻れば、もとの「真実」の影がふたたび立ちすくんでいる。

   現実/夢

   現実(リアル)/虚構(バーチャル)

   正気/狂気

 対立しているかにみえる二つの位相は、互いに情報をやり取りし、別のスタイルで情報を展開している。片側でとらえきれない情報はもう一方の側に送り込み、ストックして、相互に便宜的に依存しあっている。この解釈は深いと思います。

 「真実」は、ほんとうのところ、二つのどちらの側にもないということになります。本当に「真実」を知りたいと願うなら、現実/夢の対立軸を越えて、より深い覚醒へ向かわなければならない、これがこの本の通奏低音です。

 大澤氏は、3・11であらわになった原発の問題は、原発依存から脱却することでしか解決できないはずという主張を、この現実/夢の枠組みの中で、つまり現実と夢(理想)が解体された現実社会にむかいながら、縦横に問題化しています。ぼくには刺激的でした。

 しかし、大澤氏の原発問題はひとまず脇におき、二つの位相が互いに補いあい、依存しているというこのラカン・大澤の考えから触発されたことを書きたいと思います。

 おそらくほとんどの人は、夢のような現実と、現実のような夢を行き来しながら、真実から目をそむけているのでしょうが、そうだとしても、その二つの世界をつくりだすことによって本人を耐えがさから守っているという面があると思います。真実を欺く防御システムではあるのですが、二項対立を超えるために二項の存在があると考えて、世界は人それ自身より深いと理解したらどうでしょう。これはぼくのひとり言ですが…。

 しかし、現代的な問題は、そんな牧歌的な二項対立のことではありません。現実(リアル)/虚構(バーチャル)/虚構の虚構/虚構の虚構の…、というふうに枝分かれするあり方の問題の場合もあります。これは真実の先送りシステムといえます。もっと問題だと思うのは、現実A=暴力/現実B=虚構というふうに、現実が分離して、犯罪にいたる場合です。この場合は、真実を消去するシステムといえるかもしれません。

 

 さて、たぶん、深い覚醒に向かうための道筋として(だと思うのですが)、この本の最後で、大澤は「垂直的な関係を基底においた集合的な意思決定」というものを提案していて、これが面白いのです。ラカンの実践をふまえたアイディアのようです。

 未来のある集団には指導的な委員会が存在するのですが、この委員会は、委員会に上がってくる意見を判断することが大きな役割なのです。状況を分析して、すすむべき道を提示し、構成員にペナルティを課すような、よくある指導部ではありません。ひたすら耳を傾け、質問をして、やがてその意見を受け入れるか否かを決定するという委員会です。(ぼくはミヒャエルエンデの「はてしない物語」のお姫様=幼心の君が、ちょっと近代化して、委員会になったようなイメージをもちました。大澤氏はソクラテスの委員会版として語っていますけど…。)

 委員会に、意見を述べる人は、意見をもっている人自身ではありません。裁判の弁護士のような立場の人、媒介者Mがいます。意見を提起したいAが媒介者Mに話します。MはAの意見を中立的な立場で聞き、よく理解し、やがて委員会に伝える機会を得ます。

 意見をもっているAは、この仕組みを理解し、よりよく伝わるようにMにしっかり話さねばなりません。Aは委員会に自分の意見を受け入れてほしいのですから、媒介者Mというハードルを越える、強い説得力をもつ必要があります。

 (いまの世ではあまたあることですが、委員会の意見が出るのをまって出たあとにあれこれ評論する、受け入れられない理由を100も並べる、あるいは先制攻撃的に意見を出せと委員会に圧力をかけるなどの手法は使えないということです。)

 委員会のイメージはいいと思います。もし、ぼくが意見を言いたいAであれば、時に挑戦的な質問者であるMと向き合い、こうしたい、こうありたいと心からの意見を一生懸命に話します。その努力を傾けているとき、それは、きっと、夢より深い覚醒に向かうための鍛錬そのものだと思えるからです。

 考えてみると、いまの日本社会で跋扈するのは「あと出しじゃんけん」です。高飛車にもの申したり、クレーマーも。見てみぬ振りだったり、沈黙だったり。人間的な真実は(現実/夢・虚構)のどこかにストックされたままで、何かが起きたら(あるいは起こすように仕向けてから)、あと出しじゃんけん。

 だから、あと出しはやめましょう、あなたの思う真実をまず語りましょう。私は聞きますよ。という小さなシステムをつくり、そこで語り合って、現実/夢の境を超えていきましょう。…そんなふうに思えてきます。

 「ここに提案した方法で機能する委員会は、未来の他者を、ここに、現在に呼び寄せる一つの方法である」(P261)。未来の他者…これも魅力的な言葉ですが、これはまた別の話です。

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