なんとなくサンネット日記

2012年1月23日

無名性

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:36 PM
おばんです

おばんです

■レスポンス

 1月14日「引き裂く/引き裂かれる・自己」の記事に、何人かの方から質問や意見をいただきました。「加藤青年は精神病だったのではないか、自分と彼とどこが違うのか」あるいは「引きこもり、ネット依存、女性への憧れ…それは自分も経験してよくわかる」。このような意見です。

 派遣(ハケン)、秋葉原(アキバ)、ネット、ケータイ(携帯)、負け組…加藤青年をめぐって現代的なキーワードと断片的情報が流れ、多くの人の関心や共感をひきよせた事件でした。

 それで、「普通」の若者の日常と地続きの事件という印象が生まれた側面があります。

 加藤青年は事件の2年前、母親に精神科に受診しようかと話したことがあります。しかし、受診したことはないようです。彼は公判において「私が起こした事件と同じような事件が将来起こらないように参考になることを話しができたらいい」と述べて、事件の原因として3つをあげています。

 一つ、問題があった時、言葉で表現しないで(暴力的)行動を起こしてしまうという「ものの考え方」。

 この「行動パターン」は、母の育て方(虐待)にあると、多くの識者が指摘しています。(芹沢俊介氏は「教育家族による子殺しというとらえ方」を無視してこの事件の本質は見えてこない、彼が起こした無差別殺人の前に、彼自身が深いところで殺されていたと述べています(『「孤独」から考える秋葉原無差別殺傷事件』P123)。確かに行動パターンが彼にとっての原因かもしれませんが、それであの大きな被害を説明できるわけではありません。

 二つ目、彼は、掲示板に現れた「嫌がらせ」が大きいと述べます。

 しかし…事件の5日前にはもう、荒らしやなりすましの嫌がらせはなくなっていました。荒らしの出現の結果、誰も来なくなった掲示板の孤独が大きかったのかもしれません。孤独が原因なのでしょうか。

 三つ目は、掲示板ばかりに依存していた生活のあり方が問題だったと彼は言います。

 中島岳志氏はこの点について「なぜ友達がいたのに孤独だったか」(『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』)と、疑問を投げかけます。加藤青年の生活は引きこもりとはいえませんでした。中島氏はこのように述べています。

 「意外なことに、加藤は現実生活に思いのほか多くの友人がいた。私は…彼の足取りをたどり、各地を歩き回った。すると、その過程で彼と仲のよかった友人が次々と現れた。…しかし…現実の友人では、(加藤には)どうしても透明な関係を結べない。真の自分を承認してもらえない…ネット上で同じネタを共有できる仲間は、自己を真に承認してくれる相手に思えた。――現実は「建前」で、掲示板は「本音」。そう語った加藤の言葉にこそ、この事件と現代社会を読み解く重要なカギがある」と。(p15-16)

 中島氏は事件の原因や加藤青年の問題の「答えを急いではいけない」と警告します。私も同感します。

 彼から事件を考えると3つの問題が見え、それで説明しようとする。しかし、私たちの立場からすると、それで事件を説明しているようには見えない。彼には見えて、私たちには見えない。おそらく、もっと彼と世界の内側、3つの問題の焦点が結ばれる暗闇で、問題は静かに存在しているのではないでしょうか。

■無名性とともに

 ネットの匿名性が人々の心をむしばんでいるのではないかとつねづね思っていました。

 匿名性に守られることで自分の胸の奥深くに秘めていた本心を語る、ということがあります。この場合、何を語りたいのか、方向はその人の心的世界の一点に向かおうとします。

 しかし、匿名性のなかだからと、多様な「自分」を創作することがあります。ネットのなかでなりたい自分を装う。あるいは、誰かの反応を期待して、偽りの人物になる。しかし、いずれにしても、他者が問題です。語ろうとするベクトルは他者が存在する外をめざし、あらゆる方向に拡散します。生まれた「自分」は次々に分岐し、跳び、肥大し、たくさんの「自分」が絡み合い、大きな森のようになっていきます。真っ暗な森のなかではどこがどこかがわからないように、元の自分がどこにあるか、もう見分けることはできません。

 加藤青年の問題も、ネットの匿名性の負の力のなかに、自分を見いだそうとしたため、迷い道をさまようはめになった気がしてなりません。

 そんなおり、ある記事に目が引かれました。1月22日付東奥日報(青森県の地方紙、共同通信系の記事)東京都現代美術館のチーフキュレーター(学芸員)長谷川祐子さんの「『なぜ?』から始める現代アート」(NHK出版新書、2011年)の本の紹介が、それです。

 20年前、駆け出しの学芸員だった長谷川さん。フランスの女性アーティストが、生まれつき目が見えない人々から聞き出した美のイメージを写真で展示するという、「見ること」を根源から問う作品を制作していました。展覧会で彼女の作品を取りあげたとき、ある評論家は「僕は知らないから」と会場に来なかったそうです。

 「このとき、現代アートの“無名性”とともに生きようと決めた」。長谷川さんはその時、そう決心します。おそらく、この逸話には、女性アーティスト・女性キュレーターを軽んじた大御所の男性評論家という話もあると思います。

 ところが、この評論家の無視ということを、「男性:女性」という土俵ではなく、より高次の「有名:無名」「評価:可能性」「既知:出会い」という土俵に押し上げていった長谷川さんの度量。これがすごいと思います。何度も読み返し、ジワッといい気分にさせられました。

 そういえば、無名でいることの勇気、無名であることの誇り、そんなことも、今の時代、忘れられつつあります。ずいぶん力をこめたこの無署名の記事(いい文章だと思いますが)、書いた人は女性記者のような気がします。記事はこう結ばれます。

 ――現代アートの作品は、見る人の創造性が加わって、はじめて完成するという。「アーティストは、自分の作品を待っている人が必ずいると思ってつくっています」。橋渡しするキュレーターもまた、見知らぬ誰かを信じ、待つ仕事なのだ。――

 そうですね。…だから、無名性には信じる、待つという力もあるのかもしれませんね。

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