なんとなくサンネット日記

2011年8月31日

いまどき、強欲ははやらない

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 10:55 AM
晩夏の朝

晩夏の朝

共感は進化の歴史のはるか昔、私たちの種よりもさらに前までさかのぼると考えられている。おそらく子育てが始まったときに生まれたのだろう。二億年に及ぶ哺乳類の進化の過程で、自分の子供に敏感なメスは、冷淡でよそよそしいメスより多くの子孫を残した。(『共感の時代へ――動物行動学が教えてくれること』、フランス・ドゥ・ヴァール、2009、邦訳2010、柴田裕之、紀伊国屋書店、P99)

陽平:この本、面白いと思うんだ。

風子:そうなの…。ふーん、帯の文章が仰々しいわね。「生物や進化を考えずに、政治や経済は語れない。なぜなら社会は人間から成り、人間は生物として進化の歴史の上にあるのだから…そして『共感』にも長い進化の歴史という裏づけがある」…。

陽平:なんか力が入っているね。いままで生物学では「攻撃」とか「縄張り」が注目されやすかったようなんだ。それから、ダーウィンの生存競争のイメージが、政治や経済を語るときのメタファーになってきたから、その反対の「共感」について語ることは大きな価値があると言っているんだろうね。

風子:たとえばどこが面白いの?

陽平:カナダのマルギ大学の「痛みの実験室」の責任者ジェフり・モウギルという人が行ったマウスの実験のことなんだけど…。

風子:うん。

陽平:マウスは酢酸(さくさん)をからだに注入されると、「軽い腹痛」が起きるんだ。酢酸とは酢だよね。マウスはからだを伸ばす動きをして、不快感をしめす。

風子:へぇ。

陽平:マウスを二匹ずつ、お互いが見えるようなガラス管に入れて、水で薄めた酢酸をマウスに注入する。不快になってからだを伸ばす。苦しんでいるんだね。ところが、自分から見える相棒が同じように苦しんでいると、そうでない場合よりよけいにからだを伸ばした。つまり、仲間が苦しんでいるところを見ると、自分の苦しみが倍加したということなんだ。

風子:マウスの「共感」を証明したということなのかしら。

陽平:ところがそれから先があるんだ。この「本能的な共感」は、同じゲージで飼われているマウスでないと起きない。

風子:…。

陽平:見知らぬマウスで、しかもそれがオスどうしの場合だと、反共感的な反応にすらなったんだ。どんな反応かは書かれていないけど、攻撃的な反応に近いものらしい。オスは互いに潜在的に敵対性が高いから、敵になりうる相手が苦しんでいても同情はしないということなんだ。(『共感の――』P104-106)

風子:オスってしょうがないわね! でも、オスとメス、知っているか知らないか、で共感が違うというわけ?

陽平:そうなんだ。共感と共感を抑える働きが同時に働いているらしい、というのがポイントだとぼくは思うんだ。ここがとても面白いと思うよ。共感というと、自分の中で起きるという自己完結的なイメージ、あるいは知的な作業という感じがするよね。でも、もっと「本能的」な働きなんだから…自動的に相手の身体の状況を自分のものにする、あるいはそのプロセスを遮断する働きがあるという感じなのかな…。

風子:共感を抑える?遮断?ねぇ…。

陽平:ぼくらは自然に知らないうちに呼吸をしている。不随意運動だよね。でも、何か緊張したときには息をこらす。ちょっと息を止めるかもしれない。そんなふうに「本能的な共感」は、自然に作動したり、停止したりして働いているのかもしれないということなんだ。

風子:そのたとえなら少しわかるわ。雨が降らないので花壇が乾いてしまって、水をまかなくっちゃとか、夜間ちょっと遅い時間の電話でも、きっと何か言いたいことがあるかもしれないと思って受話器をとるのは、からだがそういうふうに動くのよね。あなたのように、何々すべきとか、すべきじゃないとか考えて、それで動くわけじゃないの。そういう意味では、呼吸に近いと思うわ。

陽平:まあ、まあ…。マウスのオスのようなオス性が、ぼくにもあるということなんだよね。

風子:理屈っぽくて、支配的なのよね。

陽平:それで、これからが言いたいことの核心なんだけど、オスとメス、あるいは子供と大人など違うがあるにしても多かれ少なかれ、共感を抑えたり、遮断したりする働きがある。そう仮定して、そのうえで、ある人間のその働きが何かの理由によって、著しく低下してしまったらどうなるかということなんだ?

風子:そうねぇ…。すると、全世界が自分の親戚のように感じて、痛みや苦しみ、退屈や喜びが自分の中に入り込んでくるような感じになる…? ダイレクトに全世界が自分のなかに飛び込んでくる感じかしら?

陽平:そうなるよね。そうだと思うんだ。そしてそれは、統合失調症の症状に似ていると思わない?

風子:…自己と他者、他者と他者の境がなくなったような症状は、奔流のように共感があふれかえる世界…? そうねぇ。

陽平:よく、統合失調症には現実離れして理解しがたい症状があるといわれるけど、そうではなくて、その本人にとっては他者の苦悩や喜びを自分と同じように感じてしまう働きが過剰になってしまった、それがあふれてしまって、他者の苦しみや喜びを必要以上に受け入れてしまっているんじゃないかな。こんなふうに考えられるし、こっちのほうが実際に近い気がするんだ。それになんか人間的な気がするし…これは「共感的理解」?

風子:なるほど…。じゃあ、逆の場合は? 共感を抑える働きが過剰になりすぎたらどうなるの?

陽平:それが、「強欲」なんじゃないかな。以前、ある人が「ぼくは統合失調症なので強いことは言えませんが…」と発言したことがあって、そのフレーズがぼくの頭にずっと残っていたんだ。共感が浮遊し、いろいろなものがつながりすぎてしまっている世界にいれば、当然、強いことは言えない。そのことにパッと気がついたんだ。

風子:そうよねぇ。相手が悪くても自分のせいにしてしまう人が多いし…。

陽平:その逆に、共感を抑える力の強い人は、他者の痛みや苦しみを自分のなかに感じないから、強気になれる。け落として、勝ち抜いて、自分の欲望を突き詰める…強欲の始まりだよね。統合失調症って、その反対側にいるような気がする…。統合失調症の人に感じる魅力は、病的だけどどこか本質的な「やさしさ」にあるのかな。

風子:強欲、冷酷、自己中心的なシステムは、共感を遮断することから生まれたとすれば、他者から何かを奪い取るように働くのは自然よね。

陽平:うん、うん。

風子:では、ようはバランスという話になるのかしら?

陽平:つまらないかもしれないけど、そういうオチになるなあ…。

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