なんとなくサンネット日記

2011年8月23日

競争的民主主義を越えて

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 4:29 PM
サラダで食べる

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■ぼくらの“反乱”

 1969年の秋、高校三年生のとき、わが高校にも学生の反旗が翻った。生徒たちが“男子は丸坊主にすべし”という校則はおかしいと訴え始めたのだ。

 校舎の2階からは駿河湾が見える。3階に登れば打ち寄せる波まで見える。 保守的で、のんびりした校風だった。そのせいか、反旗といっても、「せめてスポーツ刈りを認めて」というささやかな要求だった。小旗サイズの反旗だ。

 体育館の2階の柔道場に、三年生だけ集められた。畳の上に座ったぼくらは自由に意見をいっていいと言われ、何人かが次々と手をあげる。当時、全国各地で学生運動が展開されていて、首都圏では高校や中学でも学内闘争が起きていた。そんな社会背景があったから、この話し合いの場は生徒を分断し、不満をそらす、露骨な「ガス抜き」でしかない。当時、そんな「大人の手法」はわからなかったから、ぼくも一生懸命発言した。

 発言を終えたぼくは興奮の冷めないまま腰を下ろそうとする。隣にいた同級生が上目づかいで小さな声でいった。「根本君、卒業すれば好きなだけ髪を伸ばせるんだから、今は勉強した方がいいよ」。手に豆単(英語の単語が載っている小さな本)をもって、彼はそう言って、ニヤッと笑った。ぼくは腰を下ろした。興奮は冷めていた。

 そんな考え方もできるんだとぼくはびっくり。強制的な校則の存在に憤っていたのはぼく。彼は、自分の個人生活のレベルにおいて話し合うメリットはまったくない、と言っていた。確かに、2,3カ月もして、年末になれば、三年生は学校に通学しなくなる。話し合いがどうであろうと髪を伸ばせる日はぼくたちのすぐ近くにあった。

 彼はぼくの論点をずらした。だけど、その時は、何が起きたのかわからず、彼の言い分もわかるので言い返せなかった。その後、校則は改善された。ぼくらの「髪の毛革命」だった。

■競争的民主主義

 彼の意見には、いろいろなものがひそんでいたと思う。道徳的な観点、価値観などは取り扱わず、自己の利害を優先させるという考え方。それから、考え方が違うのだから発言する必要もないという姿勢。これは、自分の利益によって、話し合いの場の取り扱い方も決める、ということになる。

 話し合うということは、「公共の広場」の多くの人の前で自分の意見を表明し、市民の「法廷」によって判断されること、と考える人もいる。たぶん、ぼくはそう考えていたと思う。

 ところが、話し合うといっても、世界は株式市場のようにいろいろな損得が絡み合うのだから、機を見て売り買いし、利益を獲得することを優先すべきで、道徳的価値観をくどくど語ることには意味がない、と考える人もいる。

 後者の考えがいいとか悪いとか検討される以前に、似たような話を次第にあちらこちらで目にするようになった。さらに、この10年ほどはすごい勢いで増殖し、それが普通になった(と思う)。前者は、いまや「暑苦し」かったり、「うざ」かったりと受けとめられる。そういう風潮もわかるけど、それだけでいいのだろうか? とぼくは思う。

 スタンフォード大学の政治学者ジェイムス・S・フィシュキンは、この間、政治制度を開放し、民意を問う機会を増やしたことが、逆に政治のゲーム化を促進してしまったことを指摘する。

 「国政をより多くの人々の政治参加に開放するプロセスそのものが、ほかの人は黙っている一方で、大声を上げる人々に力を与えてしまった…議論は、すでに確信している人物が他者を説得しようと発するメッセージのやり取りが基本形になってしまった」(『人々の声が響きあうとき』、2010年、邦訳2011年、岩木貴子訳、早川書房、P85-86)

 民主主義の市場化は、不道徳な面も引きおこしている。自己利益のため、あるいは自分が攻撃される前に、まず他者を攻撃する(…有能なアメリカの弁護士のように)。主張の内容が妥当かではなく、効果を第一に考える(…活発なロビースト)。エスカレートすれば、なりすましなどのかく乱、不法な情報収集(…スパイ活動のように)、脅迫じみたメッセージ(…それは非合法)。

 これで、いいわけない。

 ■道徳から逃げない

 ジェイムス・S・フィシュキンの本を読んで、競争的民主主義という言葉を知った。不道徳な事態を引き起こしかねない考え方のようだ。少なくとも、競争的民主主義の立場を取る人は、政治的決定において道徳や価値を問うことは時間の無駄と考えている。

 フィシュキンは、競争的民主主義などの考え方を越えた熟議民主主義を提唱する。そして、集団の政治的意思を決定するため、情報にもとづく同意(インフォームド・コンセント)が得られる見解に達するための、5つの必要条件をあげている。(『人々の声―』P60などから作成)

  (1) 十分な情報――争点に関係すると思われる十分に正確な情報が与えられているか。(情報を操作しない。争点を隠さない)

  (2) バランスが取れた論点整理――ある意見に対して、それに反対の意見も表現され、検討されるか。(後出しジャンケンはしない)

  (3) 多様性を大切にする――世間に存在している多様な意見・立場が表現される。(自分が望む結果に意見を収斂させようとしない)

  (4) 誠実性――異なる意見に対しても真摯に吟味する。(不道徳な意図をもたない)

  (5) 平等な決定――誰が発言したかではなく、その論点・意見そのものについて判断を下す。(決定に際して自己の利益を脇における)

 この5つは真剣に検討されるべきだ。

 人類は多くの束縛から自由になろうとしてきた。そして、いまや道徳や価値がもつ束縛からも逃れようとしている。しかし、それでは“自由”の基盤を損なうことになる。

 「庭」に大きな庭石を置くことで、生き生きした空間を創りだすように、私たちは語りあいの「空間」に確かな束縛(=生き生きしたものを生み出すための束縛)を据えなければならない。そのための自由と想像力が必要であり、5つの項目は政治的決定の場面だけではなく、日常場面で展開されるべきだ。それを実践するなかで、わたしたちは確かなものを見通す力を得、歩むべき方向が明らかになる、ぼくにはそう思える。

 あの時豆単を手にしていた彼は、口の悪さに生き方まであわせられない不器用な人間だった。いまはどのような土地で、どのような暮らし方をしているのだろう。

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