なんとなくサンネット日記

2011年5月6日

責任の相互性

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 12:39 PM
今年も咲きました

今年も咲きました

風子:治療とは、患者が自分の病気に関する物語を書き換える のを手助けすること…この言葉、どこかで聞いたことがあると思っていたの。

陽平:そう!…友だちのメールも、その部分はカッコになっていたので、誰かの引用かなと思っていたんだ。

風子:彼のメールの元は何か分からないけど、この間から読んでいる本に似た個所を見つけたわ。アーサー・W・フランクの『傷ついた物語の語り手』という本なの。ちょっと読んでみていいかしら。

陽平:聞きたいな。

――(前立腺癌で亡くなった評論家・編集者)アナトール・ブロイヤードは、自分自身が医者に対して「よい物語」でありたいと述べていた。ブロイヤードは、医師たちにむけたスピーチでこれを語ったのであった。その文脈の中で彼は、病いを経験する者にとってもまた医師たちにとっても耳慣れない、責任の相互性という考え方を提起している。

――彼のいう責任とは、医者の指示にしたがうことによって快方を目指すという責任とは異なるものである…ブロイヤードは、自らの病いをよい物語へと仕立て、その中に物語的真実を見いだし、その真実を語る責任を求めるのである。彼は自らその病いについての証人として宣言する。そして彼は、その聴き手――医療専門職のメンバーたち――に、彼の証言についての証人となるよう呼びかける。

――(彼は、患者がつくる)物語が聴き手を必要とすること、したがって物語は語られねばならないということを心得ていた…よい物語であることへの責任を引き受けると同時に、その物語を受け取るという相補的な責任を担うよう医師たちに呼びかけたのである――。

陽平:命令されたことにしたがう責任ではなく、応答する責任と考えた方がいいんだね。見えている現実を越えて、もっと深い何かと応答する…。それを医師と協働していく。すごく深い、大きな話だと思う。

風子:物語というと作り話、意味のない、いい加減なものと思われるけど、ここでいう物語はそんなことではないのよね。病気の人がそれにしたがって生きられる何か、…世界のようなものよね。たとえ病いでこの世の生が断たされるかもしれないけど、死に侵されることのない世界…というのかしら。

陽平:物語的真実という言葉がいいね。

風子:そうね。医療データという真実でもないし、裁判所が事件などで認定する事実でもない。権威や機器で判定されることはない、人が生きていくために真に必要な「真実」なのよね。

陽平:他人に対する道徳ではない自分に対する道徳、高い道徳が求められていると思うな。

風子:この文章に続いてこんなことを述べているのよ。ほんとうにすごいと思うわ。怖いような気がすれけど、心が洗われるような思いもするの…。

 

――病いの物語をよい物語とするのは、証人の行為である。証人は、暗黙のうちにであれ明示的にであれ、次のように語る。

――「私は、あなたがそれを聞きたいとは願わないとしても、私がそれを生きてしまったがゆえにそれが真実であると知っていることをあなたに告げる。その真実は、あなたを混乱させるかもしれない。しかし、結局のところあなたは、真実を聴かずに放免されることはない。

――なぜならあなたはすでにそれを知っているからだ。あなたの身体がそれをすでに知っているのだ」。こうした物語を真実のものとして語ることによって、病む人は、その状況を受けとめ応えるのである――

(『傷ついた物語の語り手』、アーサー・W・フランク、1995年、鈴木智之訳2002年、ゆるみ出版、p95-97)

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