なんとなくサンネット日記

2018年6月3日

分裂

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:33 PM

(写真1)1979年6月 名古屋

■分裂・解消
全国「精神病」者集団という組織があるのですが、一昨年から、この団体の内部問題が表面化していました。

精神保健福祉にかかわっている人でも、この団体名や歴史的な位置づけを知らない人がたくさんいます。知らなかった人が、いまこの名を聞けば、おどろおどろしく感じるでしょう。団体名になぜかカッコがついているし、「集団」というネーミングに違和感をおぼえるかもしれません。
私が最初にこの団体の人と出会ったのは1975年頃だと思います。1977年~79年にはいっしょに行動することもありました。その後は縁遠くなりましたが、この10年余前からあることがきっかけになって、再び会のニュースを読んだり、関心を寄せていました。

一昨年以前から、団体の存在意義への疑問がニュースに載せられたりしていましたから、内部問題がありそうだと感じていました。

2016年の秋になると、はっきりと二つに分かれて、別々に通信をだしあうようになります。表面的な問題としては、他団体との関係のあり方、組織運営の責任の所在などでしたが、それ以前のポツポツ散見していたものから想像すると、もっと深い運動スタイルのようなものの衝突が予感されていました。
弁護士を含む外部仲介者が、泥仕合化を避けるべく介入したようです。そのこともあってことの「原因」「真相」ははっきりしないまま、推移していました。そして紆余曲折の末、この春、ある合意がなされたそうです。

 

…(全国「精神病」者集団は)2018年3月、2つの独立した団体とする合意が成立、2018年4月30日をもって解散した。この経緯は、全国「精神病」者集団ニュース最終号記事に詳しく述べられている。
なお、世界精神医療ユーザー・サバイバーネットワークへの日本からの加盟団体を含め、全国「精神病」者集団が日本唯一の加盟団体として行っていた活動の今後については、2018年5月30日時点では未定。…(ウィキペディアより)
(https://ja.wikipedia.org/wiki/全国「精神病」者集団 引用2018.6.3)

 

80年代から全国「精神病」者集団で中心的な役割を担ってきた人は、全国「精神病」者集団と同じ原則を継承しつつ、「精神障害者権利主張センター・絆」という名で団体を立ち上げました。(二つのグループのこちら側を「絆派」とします)
( www.jngmdp.org/  http://acppd.org/ 2018.6.3)

ところが5月末になると、もう一方のグループが、絆派の代表者の名をさして、「全国「精神病」者集団は解散したなどと、合意書及び話し合いの記録に存在しない虚偽の事実まで流布して」いると抗議しました。そして、事実上、合意内容を破棄し、再び、「全国「精神病」者集団を名乗り始めました。

こちらのグループは、10年以上前から「全国「精神病」者集団運営委員という立場で活動してきた人たちが中心です。(便宜的にこちらのグループを「運営委員会派」とします)

泥仕合にならないようにと配慮したはずの、仲介者の方策案だったのに、無に帰したようです。
市民運動を進展させるために、過去のことを掘り起こさず(真相は問わず)、前に進むための調整だったと私は理解していました。利害や主張を折り合うことで、調整は可能になります。一方だけが団体名の看板をもらい受け、相手方を別組織に分離して、しかも真相にはふれないというのでは、「一人勝ち」です。そうなっては、行なわれた調整は、実は調整でなく、調整に見せかけたある種のトリックだったということになってしまいます。

解散分裂に至ったきっかけの一つに、2016年夏頃にあったML(メーリングリスト)でのやりとりがあるといいます。運営委員会派に関係するある男性メンバーが、性暴力をふるったことがあると絆派の人がMLに書き込み、名指しされたほうの運営委員会派の人も、それに対して反論したという、やりとりがあったようです。
運営委員会派のニュースにこのことが書いてありますが、運営委員会派が、なぜ、個別の関係の問題を組織問題までに拡大しなければならなかったのか、その事情がよくわかりません。

運営委員会派ニュース(2016.10 vol.42 No.7 www.arsvi.com/2010/20161018zss.pdf
2017.1 vol.43 No.1 http://www.arsvi.com/2010/20170109zss.pdf )

 

事件があったのか、なかったのかそれは知る由もありません。しかし、運営委員会派のニュースの書き方が腑に落ちません。
性暴力をふるったと言った人はその根拠を示さない。名指しされた人物は必死の訴えをしている。したがって事件はなかったと思われる。無実だという彼の言い分を信じる。仮にあったにせよ、MLで言い立てるのは名誉毀損ではないか――というのが、運営委員派の立ち位置でした。

組織問題として扱っているのですから、名指しされた人が全国「精神病」者集団の運営にかかわっている重要な人なのか、あるいは運動のなかの事件かもしれません。そう想像します。市民運動とまったくかかわりのないところで起きたものなら、個別的な関係のなかで解決を図ろうとするはずです。こういった問題の多くはMLのなかで収めようとします。

会社のなかで仕事の延長で同様のことが起きたら、セクハラ、性暴力の事実究明に力を入れると思います。個人の名誉毀損的に暴露と、刑事事件になるかもしれない性暴力事件の有無を計りにかけ、慎重に調査をするはずです。セクハラがあったといった社員に「根拠を示せ、それがなければ言いがかりといっしょだ」などとはいえません。それでは先日の財務省事務次官のセクハラ問題のときの麻生大臣と似たりよったりになってしまいます。

いろいろ調べて、性暴力の事件性がないらしいと判断したら、あとは個人どうしの了解に任せるか、非のある側に注意する程度ではないでしょうか。

運営委員会派の態度は、重いはずの性暴力事件について簡単にやり過ごし、名誉毀損的な言動に対して力をこめて向きあっているように見えます。

運動の内部で起きてくる「深い問題」は自己切開するしかありません。事件があったのか、なかったのか、それは運営に責任をもっている人間たちが、議論をきちんとしよう、たとえ厳しい結果になろうと受け入れるべきと高い価値観をもつ必要があるでしょう。あるいは周囲に政治的に緊迫した状態があって自己切開せざるを得なくなる状況があるとかが必要です。

 

■1979年の思い出
さて、写真は、結成して5年目の全国「精神病」者集団が呼びかけて開催された第4回全国精神障害者交流集会のスナップです。私が撮った写真です。

1977年から1979年秋まで私は「八王子赤堀さんと共に闘う会」という会で活動しました。知的障害ゆえに殺人事件の犯人にデッチあげられた死刑囚赤堀政雄さんを支援する会でした。

私は福祉の現場に出たばかりで、「する側」の仕事だけしていていいのだろうかと後ろめたさを感じていました。翌年、このようなかたちで障害者にかかわる会もあることを知ったときは、「これだ!」と思いました。飛び込むようにかかわりました。

単純な正義感だけがあって、政治的には無自覚だった私が飛び込んだ活動空間は、新左翼の党派の人たちがうようよいるところでした。そ

(写真2)赤堀さんと共に闘う会の旗も見える

ういう時代です。八王子赤堀さんと共に闘う会には病気の人も何人かしました。地域で支えあうという営みにもとりかかっていました。そしてあるセクトの人が2,3人いました。

赤堀さんを救援する活動は、新左翼系的においては赤堀闘争と呼ばれ、「救う」のではない「共に闘って、奪還する」のだという位置づけでした。「関東赤堀さんと共に闘う会」という会が池袋の近くにあって、首都圏の活動センターとして機能していたようです。いくつもの党派が集まる「関東赤堀さんと共に闘う会」の議論は延々長くて、たいへんだったようです。
1978年、赤堀闘争の主体は病者、障害者にならなければならないという動きの中で、戦闘的な党派の人たちと、裁判闘争に貢献する地道な活動も主張する党派の人たちとの間で確執が強くなりました。

それまで全国的な集会の場合、担って来た「関東赤堀さんと共に闘う会」が全体としては動けないという状態になったため、私が、当時名古屋にあった全国「精神病」者集団の事務所に連絡で向かったり、党派の人たちに何を用意してほしいと分担してもらったりという調整役をする羽目になってしまいました。私たちの会に参加していたセクトが赤堀闘争全体のヘゲモニーを把握するようになり、私たちの会からノンセクトの私を派遣させることが全体のバランス上よいと判断されたようです。
よくわからないまま動いていた私ですが、そんななかでいろいろな人と知り合い、仲良くなる人もいました。

翌年、名古屋であった写真の第4回全国精神障害者交流集会にも、前年のいろいろな関係を引きずって参加しました。たまたま写真1に写ってしまった女性は物静かな人で、党派性を超えて動いてくれた人です。私は助かりました。懐かしい写真です。

集会では保育室をつくったり、静養室を用意したりしましたから、病者より学生や支援者がたくさんいました。みんなで作り上げた集会だったのです。私は記録のために集会の録音もしました。

■いこいの家というイメージ
当時、全国「精神病」者集団のメンバーで、吉田おさみさんという方がいました。彼は理論家でした。彼は自分たちの組織、全国「精神病」者集団のことをこんなふうに書いています。

 

…全国の地域患者会、病院患者会の連合会として、全国「精神病」者集団があります。それは、むしろ少数精鋭の前衛的な組織であり…患者の側からの政治運動の先頭に立って闘っています…現在事務局は名古屋にあり、月一回連絡会議を開き、ニュースを出し、機関誌『絆』も八号まで出されています。強いて問題をいえば、活動する(できる)人が少ないこと、患者大衆とのギャップをどうして埋めていくかということ、それと資金難です…(「精神障害者」の解放と連帯、新泉社、1983年、pp47)

 

活動できる人が少ないというのは、病気で思うように活動できないという吉田さん自身の事情も含まれています。患者大衆とのギャップというのは、政治的な課題だけでなく、日常的な、暮らしのレベルでの支えあいと政治的な覚醒について述べていると思います。先鋭的な政治課題をかかええた生まれたばかりの当事者運動は、日常的な支援関係も希求していました。
写真1の奥は演壇で、壁には何本もの垂れ幕が下がっています。右の方に目を凝らすと、「各地域において『いこいの家』の創出に努力しよう」といったスローガンも見えます。

精神病の人が具合の悪い時に休める家、入院している人が退院できる家、仲間と出会えるみんなの家、そんなイメージを、戦闘的なたくさんの政治課題の脇に、そっと並べていたのです。それが1979年でした。

 

■盗聴といわれた
名古屋の全国交流集会から何十年もたってから、全国「精神病」者集団の運営委員会派のある人から第4回全国精神障害者交流集会の録音テープのことについてこんなふうに書かれたことがありました。

 

…七九年に名古屋で第4回の「病」者集団の大会あったじゃないですか。誰かが盗聴していたテープが残っているんです。許せないことだけど、今となれば。…(現代思想、2014年、5月号、P201)

 

録音テープは私がその後ずっと保管していて、2007年に私の家にあるテープの存在をその人に教えました。翌年、その人は、全国「精神病」者集団の別のある人がそのテープを聞きたいと言っているといってきました。私は「テープを貸し出します。必要なくなったら返却ください」とメモを入れて事務所に郵送しました。そういう経過で、全国「精神病」者集団の元に「残っている」というわけです。ですから、このような一文に出会ったときたいへん驚きました。でも彼がいいたいことは何か、それはよくわかりました。

事実というのは「他人を貶めるためにこうも言える」ということであってはなりません。事実なり、主張は、ことの真実、人と人の信頼、そういった人間的な価値に向って整えられるべきです。全国「精神病」者集団の今後に向けてさらに多くの事実や主張が語られるかもしれません。それはどの人にとっても喜びや敬意をもって受け入れられるものとして積み上げられてほしいものです。

そうでなければ、今度もこの写真が「盗撮だ」と言われかねませんから。

あの交流会から39年目の初夏。

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