なんとなくサンネット日記

2016年1月30日

思い出すこと

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:56 PM
寒中のひと時

寒中のひと時

悪夢にうなされ、自分の声で驚いて、ハッと目を覚ましたら汗びっしょりだった。

悪夢は、夢の中で確かに現実だった。

昼間、友人にそのことを話す。「夕べひどい夢を見て…」と話す。ところが話をしている私は汗も出なければ、夢を見たときとは違っている。体験することと、想い出すことは違う…そんな知識をぼくたちは知らず知らずに蓄えている。

しかし、夢は他者と共有できるものではない。夢が未来を予測したり、真実を暴くものであれば別だが、ふつう人間社会で価値を生み出さない。なので、夢で体験した現実はプログラムでいえばバグ(何かの誤り)のようなものとして考えるようなる。

人間に付きまとうヒューマンエラー、錯覚といった「ブラックボックス」のなかに放り込んで、まぜこぜにしてそれ以上は考えない。それが大人になることだと信じるようになり、やがて忘れる。

しかし、いつかは、夢、幻視といったことの「現実体験」と、錯覚、思い違い、意識の低下との区別をつけなければならない。

 

 

視覚が衰えた高齢者の15%が人や動物などの複雑な幻覚を見るという。

聴覚に障害がある人が幻聴を聞くこともよく知られているそうだ。

独房に入れられた囚人は「囚人の映画」といわれる幻視を体験する。

水夫、トラック運転手、パイロットなど視覚的に単調な仕事に従事していると幻覚を体験する。(水夫の「セイレーン(海の怪物)」、トラック運転手の「トンネルの幽霊」、パイロットにとっての「UFO」も、その一部は幻視かもしれない)。

聴覚、視覚、触覚の感覚を遮断し、幻覚や幻聴を体験するという実験が行われた。

そういった感覚遮断のドイツの実験である。ある研究者グループが、女性芸術家に22日間目隠しして幻視を体験してもらった。目隠しをしたままMRIに入り、幻視が始まるときと終わるときを合図する。研究者はMRIで彼女の変化をスキャンする。すると、彼女は幻視を見ているとき、視覚野が活性化していた。つまり幻視とは「実際に見ている」のである。

次に、目隠しをとって、彼女に自分が見た幻視をイラストで描いてもらう。そして像を思い出してもらうという作業をする。ところが、そこでは視覚野が活性化しなかった。つまり、イラストを描く、思い出すことは、「実際に見ているのではない」。

これは、先の「悪夢の体験」と合致している。幻視を見ていることと、それを思い出すこととは違うのだ。しかも「体験」はただの錯覚ではなかった。脳のスキャンと一致していた。(「意識と無意識の間」マイケル・コーバリス、鍛原多恵子訳、2015年、講談社新書、p167-168)

 

 

これはいくつものヒントを与える。

幻視や幻聴は、いろいろな原因から生じ、本人にとっての体験は実際に見たり、聴いたりすることとかわりがない。(ということは、幻聴・幻視=統合失調症という図式は成り立たないだろうとぼくは思う)。

脳自体のある種の必要性、例えば感覚遮断という「退屈」などから、幻聴・幻視が生みだされるのかもしれない。

そして、脳は、幻聴・幻視を働かせる分野と、想像や記憶の再現に関する分野に、信号を分類して、それぞれ異なる領域に送り出すのかもしれない。

PTSDのフラッシュバックは、「記憶の再現」であるはずが、「幻視」へと間違って送られることかもしれない。既視感が心を妙に不安にさせるのは、現実に働いている視覚が、「記憶の再現」機能とクロスするためだろうか。

メンタルヘルスに課題をかかえていて、幻聴や幻覚で悩んだ経験をもつ人は、症状が「恐怖」「不安」などのネガティブな感情と結びついていることが多い。この場合、記憶を再現して語るということは、幻視ルートに乗りやすい潜在的な脳内信号が、ネガティブな感情との結びつきと切り離れるように働くかもしれない。

「見る」ことと「思い出して見る」こととは別のはたらきであるということは、思いのほか、大きな意味があるように思う。単なる記録力の低下ではなく、思い出さない、覚えていないということを自分に役立てるような人の場合、幻視や幻聴より問題が大きいのかもしれないと思うのだ。

 

第二次大戦中、ニューギニア戦線に従軍した漫画家の水木しげる(2015年11月30日享年93歳で逝去)はこんなことを言っている。

案外、空腹というのは(空腹といってもかなり強烈な空腹だが)、いろいろな幻覚というか、奇妙なものを見せてくれるものだ。戦争中、1年も飯というものを食わなかったことがあるが、白米を食う夢とか、すき焼きの夢ばかりみていた。しまいには夢を通りこしてなんだか、そこにあるような気さえしたことがある。(『水木しげるの妖怪文庫(二)、河出書房新社、1984年、p165』)

おそらく、白米の「夢」や「現実」が彼を救ってくれたのだろう。

もしも、自分だけ白米を食べていながら、食べたことを忘れてしまった上官がいたら、その「記憶の喪失」は、水木たちの「白昼夢」より、たちの悪い能力だ。「悪いやつほど眠る」とは、この忘れる能力をさしているのだろうか?

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