なんとなくサンネット日記

2015年9月29日

曲がり角

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:52 PM
そこを曲がると

そこを曲がると

それはずっと昔々、私が会った人たちのこと。

横暴な老人がいて、長く連れ添った妻は、夫の振る舞いにしじゅう困っていました。ところが相談にのったある保健師は、この横暴な夫に寄り添い、気持ちを受けとめることが、この夫婦の問題の解決につながると信じていたので、妻の悩みはより深くなりました。

夫は、飲酒しては妻にあたり、記憶は混乱し、いきあたりばったりの感情に身を任せる日々。彼はなんらかのメンタルヘルスの課題をかかえたのです。ところが保健師は妻の対応に問題があると思っていました。私は保健師の思い入れに首をかしげていました。

妻は時おり家出し、子どもの家に身を寄せるのですが、長居もできず、夫の機嫌を推しはかりながら、家に戻るといういったりきたりでした。

妻が不在になると、歩けない夫は通院できません。保健師は夫を背負ってタクシーに乗せて、付き添いました。

いまで言えば、保健師は徹底的な当事者中心主義です。私は情に流されていただけで、何の論理もありません。ただ妻を哀れんでいたきがします。夫を怖れて家に入れない本当に小柄な妻に付き添って、私は曲がり角の先にある自宅まで送ります。私がいれば、夫は妻にはあたりません。

保健師は夫を、私は妻をそれぞれ応援していたのです。あれから、どうなったのか。曲がり角を見たとたんに思い出したずっと昔のことです。

入院以外の地域精神保健活動の支援活動がほとんどなかった時代でした。

 

■対話

地域精神保健の活動において、現在、フィンランドのオープンダイアローグが注目されています。地域で暮らしている人がメンタル上の危機にあったとき、複数の専門家が相談者の自宅を訪問し、対話し、危機を乗り切る援助をするというのです。(『オープンダイアローグとは何か』、斎藤環著・訳、医学書院、2015年)

 

対話の目的とは、ただひとつの記述や説明を見つけ出すことではありません。対話とは相互的な行為です。精神療法の一形態として対話に注目することは、セラピストの位置づけを変えてしまうでしょう。なぜならセラピストは、もはや外部から治療的に介入する立場ではなく、発話と応答の相互的プロセスにおける一参加者として振舞うことになるからです。(p159)

もし、あのとき、あのご夫婦と保健師、私などでオープンダイアローグ(対話)ができたら、ずいぶん違っていたと思います。私たちは、外部から治療的に介入しているわけではなく、オープンダイアローグのように相互的でしたが、オープンダイアローグのような秩序はなかったのです。もしぼくたちに秩序(思考、システム、思想)があったら…。

オープンダイアローグは実に魅力的なアプローチです。

 

■地域とは

地域精神保健ということを考えるとき、『プシコ ナウティカ――イタリア精神医療の人類学』(松嶋健、世界思想社、2014)も刺激的です。

 

〈地域〉精神保健とは、単に病院の外でサービスを提供することを意味しているのではない。〈地域〉とは単に病院の外の空間を指しているわけではないのだ。それは、人々の生と関係性が縫いこまれていくことで生み出される、生態学的なテリトリーである。そこにはくつろぎがあり遊びのある〈agio〉(注:アージョ、イタリア語で「ゆとり」「のんびり」などの意)の場所であり、利用者たちの生がそこに編みこまれていくことで〈主体性〉を具体的に行使できるようになっていく集合的な環境である。だからこそ精神保健サービスのオペラトーレ(スタッフ)たちは、利用者と〈地域〉の両方に関りながら仕事をする。(p381)

そうだな。あの頃のぼくたちは、精一杯地域に働きかけることで、生態学的なテリトリーに縫いこまれていたけど、〈agio〉をめざしてはいませんでした。〈agio〉を考えることができなかったのです。目の前の場面を越える視点をもっていませんでした。

あれから、何十年。ぼくたちの前には、いくつもの洗練された思想と実践があります。それは多くの人の苦労と悩みと喜びによってつくられた手作りの思考を、ぼくたちが受け取り、現場で用いろうとするか、です。

 

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