なんとなくサンネット日記

2015年7月27日

こんには。実は・・・

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:59 PM

 

風と 空と

風と 空と

陽平:神戸連続児童殺傷事件の元少年Aが書いた本、『絶歌』のことを聞いたことがあるだろ?

風子:すごいバッシングだそうね。悲惨な事件だし、私は、あまりかかわりたくないという気分が先立つわ。今回の出版は、被害者家族の気持ちを踏みにじったということが大きいのでしょう?

陽平:そうなんだ。この出版に関しての、主な関係者は、元少年A、被害者家族、出版関係者となるけど、その三者について、被害者家族の思いを軸にした批判が多い。元少年Aや出版関係者に対して厳しいね。

風子:そうらしいわね。 でも、そういうふうにこの事件の関係者というふうに広げて考えると、元少年Aの家族という立場もあるわね。

陽平:そうだよ。それに、元少年Aの更生にかかわった専門家、篤志家という立場もあるし、それから一般市民、つまりこれから彼とかかわる可能性のある人々がいるんだ。

風子:元少年の家族は、バッシングの被害者ともいえるわね。かかわった専門家、篤志家はどんな思いかしら…。

陽平:う~ん。彼の審判を担当した元判事、井垣康弘さんは、保護観察期間が終わった2004年12月以降も、専門家や篤志家のサポートを受けて、何らかの継続的な贖罪行動を重ねられたらと残念がっているね(文芸春秋,8月号)。

Aは、保護観察期間が終わった後は、身元が分からないようにまるで「逃亡者」のように暮らしてきているんだ。だから、「100メートルで言えば、Aは、最初の20メートルで転んでまた立ちあがって走ろうとしている段階です。社会がAを見守り、贖罪行動をさせられるかどうか――私たちは経験したことのない闘いに挑んでいるのです」(p147)と論文を結んでいるんだ。

風子:「経験したことのない闘い」ねぇ…。

陽平:そう! 立ちあがって走ろうとしているAの、それが今なんだ。被害者遺族への配慮を欠いた本を出してしまった今なんだ、というのが井垣さんの主張なんだ。つまり、なるべく多くの人が立場を越えて、80メートル先を見なければならないというんだ。

風子:そうね、いまはむしろ、20メートルの地点から戻って、スタート地点に目を向けている人が多いかも。「被害者」の立場に立つ、その視点に立つといっても、遺族も加害者家族も、事件から18年たって、それぞれの苦難の20メートルを歩んできたわけだから、スタート地点に戻るような論調が圧倒してしまったら、それぞれの18年の努力を否定しかねないわね。

陽平:バッシングの要因の大きなものとして、事件に至り医療少年院に入所するところまでを書いている本の前半部分の彼の表現を、どう受け止めるか、それでまったく違ってしまっているようなんだ。

 

いくつかの批判

立花隆:「あの本に対する私の評価はゼロである…変に文学づいた訳のわからない文章があまりにも多い…一読ナンジャコレハとあきれる文章が多く、この少年は病気が治っていないのでは(?)と思った」(文芸春秋8月号)

奥野修司(ノンフィクション作家):「懺悔録のように見せかけて、実は、自分自身の悪いところを避けて通った身勝手な“私小説”にすぎない…(前半部分には)気味の悪いメタファーやアナロジーを使った文章が随所に登場する」(文芸春秋8月号)

諸澤英道(常磐大学教授)「内容的にも、被害者に対して謝罪をして理解してもらうという努力が感じられません。文学的な脚色が多く、事件と向き合っていくという真摯(しんし)さが伝わってこない」朝日新聞デジタル2015年6月22日20時49分

 

風子:そうね。松本麗華(松本智津夫死刑囚の三女)は新聞で視野の広い論評をしていたけど、前半部分の文体については「技巧的な表現が多用され、第三者が書いた小説のようだ」(東奥日報2015年7月17日)と批判していたわね。

陽平:18年前の猟奇的な事件と、今回の文学的・第三者的な表現に、ギャップがあると多くの人が感じているんだ。14歳の子どもが犯してしまった究極の罪を、18年後の彼がどのように贖罪するのか、それはむずかしいことだと思う。誰が加害者であっても、多くの人が納得するような贖罪はできるものではないだろう。そういう面がある。

しかし、Aの表現には、彼特有の「世界」が含まれていて、それがギャップを広げていると思う。

風子:反省していないとかと思われるような表現の手法の問題だけではない、彼とのギャップがあるということ?

陽平:精神科医の香山リカは、Aにはサイコパスの傾向があって、それが事件の大きな要因であり、この本も「なぜこのような書き方なのか」を、その面から補足することが必要だったと言っている(月刊『創』8月号)。そうとも言えるかもしれないなあ。

風子:サイコパス!?

陽平:香山リカはこういっているよ。サイコパスの特徴であるのは、「『恐怖』や『痛み』を感知するのが苦手で、抽象的な概念や暗喩をなかなか理解できない…やり方が間違っているときにもそれを修正することができず、『偏狭なまでに集中し、全力で前に進んでいく傾向』がある…これらの特徴はすべて元少年Aの手記からも見てとれる」(p78)と。だから、本の中に精神医療の専門家の解説が必要だったのではないか、もしそれが可能であったら、彼の病理を踏まえて、彼の更生程度を評価できたはずと主張しているんだ。

風子:本人とバッシングのあいだに精神科医が立つ、ということなのね。この本のつくりをそうすべきかどうか、元判事井垣康弘さんの言うとおり「経験したことのない闘い」であるなら、いろいろな立場の人がこの問題にかかわらなければならないわね。

陽平:そうなんだ。ぼくはこんなことを考えるんだ…。もし知り合いがいて、その人から「実はぼくはAなんだ。『絶歌』を読んでくれました? どう思いますか。もしよかったら感想を聞かせてください」といわれたら、本人に向ってどのように言うだろうか、というシチュエーションを…想像するんだ。

アパートの隣かなんかに住んでいて、僕が落とした財布を拾ってくれたかなんかで、顔見知りになって、ちょっとしたお礼をしたりして、親しくなったとする。ずいぶん静かな青年だなと思いつつ、なんかわけでもあるんだろうなと気にする関係がしばらく続いた。

そんな折に、突然、彼から打ち分けられた。「どうも、週刊誌に、この私の住まいが感づかれたらしいので、今晩、この町を出て行くことにしました。あなたにだけは、直接、本の感想を聞かせてほしいと思ったので…」

顔見知りになった、でも相手は「サイコパス」かもしれない。本心のところはわからない。きちんと定時にアパートに帰ってきて、顔を合わせれば、挨拶する。伏目がちに、視線はあっていないけど、それなりの精一杯さは伝わってくるつもりなんだ。

それは、だまされるということなのかもしれないが、彼が、再スタートをしたい、つまり立ち上がってあと80メートル走りたいと思っていることは信じるだろうと思う。そんなことを考えるんだ…。

風子:そうねぇ…。

 

 

視ているだけで眼底が痙攣するような、白銀にギラめく立体的な太陽が、その真下を遊ぐ雲の魚群を陽光の銛で串刺しにし、逆光で黒く翳った森のそこかしこに、幾筋もの光の梯子が降りていた。(p30)

これは、彼が事件当時お気に入りだった場所のひとつ、入角ノ池の風景の描写だ。「眼底が痙攣」「串刺し」といった肉体的ヒフ感覚と、「ギラめく立体的な太陽」「陽光の銛」「光の梯子」といった明暗的な視覚と合体させた彼の特徴的な描写が、他の何箇所かにも見られる。

彼は、子宮回帰願望があったという。この池の淵で、エンドレスリピートで聞いたのが、ユーミンの『砂の惑星』だったという。

「僕にとって“池”は“母体の象徴”であり、ユーミンの「砂の惑星」は胎児の頃に聴いた母親の心音だった」(p32)。

本の題名“絶歌”とは、かつて「心音」のように響いたその歌が絶える、尽きるという意味なのだろう。32歳のいま、彼は、贖罪のしようがないと思われるような重大な過去を生み出した、彼の空想的でゆがんだ世界の「子宮」をあとにしたいと思っているのだ。すくなくとも彼はそう表現したのだった。

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