■長島愛生園のこと
昨年は『生きがいについて』(1965年、みすず書房)の著者、神谷美恵子の生誕100年であった(1914-1979。65歳で没)。
ハンセン病の療養所・長島愛生園(岡山)で精神科医として働いた。ミッシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』(訳出1969年)の訳者としても高名である。
『生きがいについて』は、ぼくも学生の頃に読んだ。コンパクトな装丁が格調ある文章とマッチして、社会科学系では、長い間、若い人の必読図書だった。
ずいぶん後に(たぶん90年代)、神谷美恵子のエッセイを読んだのだが、どこかにこのような光景を描いた文章があった。
――ハンセン病者を強制隔離していた長島愛生園。ある時、患者が亡くなる。死亡した患者は所長の光田健輔医師(1976-1964)が解剖を行うことになっていた。神谷はその解剖に立ち会う。医学的な発展に寄与るための解剖であり、光田は一心に取り組む。
時間が経過。今日のうちに荼毘にふさねばならず、解剖が終わるのを待っている入園者たち(雑役夫)が、やや落ちかなくなる。日が暮れて、火葬が間に合わなくなることを恐れていた。
やがて光田は仕事が終わったことを告げると、入園者たちがいそいそと遺体を引き取っていく。解剖を終え、部屋から出てきた光田に夕日が当たり、額に汗が光った…――
『生きがいについて』以外は買って読んだ覚えはないから、どこかの図書館で読んだ本なのだろう。どこだったか、いつだったか、本の題名は? なぜ読んだのか?…もう記憶はない。
この文章は、いつの時期に書かれたのだろう。神谷が29歳で長島愛生園にいった時のことか、40代になって療養所の精神科医として赴任した時か? 読んだとき、軽い違和感があった。医師と病者の関係が、江戸時代の侍と百姓の関係のように思えたからだ。それでその箇所だけが記憶に残ったのだろう。
後日になって、神谷の医師としての社会的立場が気になり始めた。壁の染みが知らず知らずに広がるように違和感が広がった。ときどき、出典を探そうとしては、果たせない。記憶はどんどん怪しくなる。
彼女の病者への「献身」は、権威に服従する範囲で存在していたのか。あるいは、専門的営為を社会的構造と切り離して考えられた「良き時代」の遺物なのか…。
ぼくは青森に来てから、松丘保養園入所者の天地聖一さんと知り合いになる。だから、2001年の熊本地裁判決の確定(隔離政策の継続は違憲)と国の謝罪という画期的な状況を、実感をもって受け止めることができた気がする。しかしその天地さんも2003年に亡くなった。(http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=197)
ハンセン病をめぐる、ぼくの思い出である。
先日、成田本店をぶらついていたら、棚の上の方に、生誕100年記念の雑誌『文藝別冊・神谷恵美子』(河出書房新社、2014)が見えた。ぼくのあやふやな記憶の件を思い出した。手にすることにした。もしかしたらヒントでもつかめるかもと…。家で読むが、念願ははたせない。しかし、新しい発見があった。
■中井久夫のこと
雑誌に、精神科医・中井久夫の文章もあった。「神谷恵美子さんの『人と読書』をめぐって」(抄)という題である。この文は『神谷恵美子コレクション全5巻』(みすず書房、2004‐2005年)の5巻『本、そして人』の解説の再掲だ。これを読み、神谷をトラウマ治療の先駆者として語るところが興味深い。
神谷を「美恵子さん」と呼び、苦悩や絶望に対する人間的な側面から捉える。社会性という水平軸ではなく、人間的に対する深度という縦軸を引いているのである。中井はそういう思いが強い人だ。神谷が29歳で長島愛生園に実習に行った頃につくった詩を取り上げている。次はその一節である。
何故私たちでなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ、
代って人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。(「癩者に」1943年)
神谷の初恋の相手、野村一彦は彼女と同年齢だった。15歳ほどから知り合った二人は、プラトニックな関係のまま、彼は東京帝大美学科在学中、腎結核のため20歳で夭折した。
引き続いて彼女も21歳で結核に罹患。治癒したしたものの再発、一時は死をも覚悟したが奇跡的な生還を果たす。
このような若い神谷の体験が、ハンセン病の患者と出会ったとき、「何故私たちでなくてあなたが?」と言わせた。この言葉には共感と断絶がある。「あなたの責め苦が聞こえる」という共感から使命感の呼び声を聞きとる。しかし「あなたになれない私」という断絶が罪悪感となって自らを責める。
「一般精神科医はできるならば(トラウマ治療を)避けたいという者が少なくない…トラウマは治療者を変える。彼/彼女(トラウマ治療を行う医師)は周囲の医療者団」から孤立しがちである」(p143)と中井は言う。
ハンセン病患者は置かれた社会状況も重なり、深いトラウマをかかえた人々であった。神谷は1958年から1972年の間、長島愛生園に勤める。そして深いトラウマとむきあったのである。
――長島愛生園で神谷さんとおつきあいのあった方々に会った人の手紙によれば「皆さんが神谷先生はほんとうにへだたりがなく、はにかむようにお話をされたとおっしゃいます…」…「はにかむ」とは胸を突かれる意外さである。新鮮で初々しくはにかむ練達の精神科医はめったにいない。それは尊大な「専門家」の対極である。この「はにかみ」に秘訣があるのかもしれない――(p145)
■トラウマのこと
トラウマをかかえた人は、人間存在の深いところにあるべき「基本的な安心感」とでもいうべきものが、ぽっかり空き、代わりにブラックホールが実在しているかのようだと中井は言う。
「はにかみ」は、ブラックホールと闘うわけでも逃走するわけでもなく、せせらぎが流れるようにゆっくりと何かを注ぐようなものなのか。
中井にとってトラウマは大きな研究課題であり、実践的な課題であった。彼が訳したジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』(1996年訳出、みすず書房)は阪神・淡路大震災後の状況の渦中の仕事だった。日本のPTSD、心的外傷の取り組みの出発となった本である。原題は「トラウマとリカバリー」。
この本の訳者あとがきで、なぜトラウマを「心的外傷」と訳したのかという説明がある。
トラウマとは、本来、ギリシャ語(トローマ)で身体の外傷の意であったが、英語圏では19世紀からすでに心の傷をトラウマと表現していた。しかし、トラウマというだけで「心の傷」として表現する「用例は、1996年現在、まだ一般に定着しているとはいえ」(p389)ないと述べている。このように、20年前トラウマという言葉は、当時の日本社会においては一般的ではなかったのだ。
ところが、いまやトラウマという言葉が身体外傷を意味していることを知っている人が少なくなってしまった。なんとまあ、言葉の意味は逆転し、内実が薄まり、すごい勢いで広がったのだろうかと思う。
だからだと思うが、『心的外傷と回復』を訳したその9年後の「神谷恵美子さんの『人と読書』をめぐって」で、中井はトラウマという言葉が、自分勝手に使われている時流にいささか怒っている。そこがぼくには面白い。
――トラウマを最初の人にぺらぺらしゃべるのは、よほど軽いか、何かの拍子にしゃべりなれてしまって「心の産毛」がすり切れたか、そもそもトラウマでないか、だ。心の傷を外傷患者はよほどのことでなければ語らない(p138)……初診で声を大にしておのれのトラウマを語る人は方々の診療所を回って「精神医学化」された患者か、そもそも外傷患者ではないかである(p143)――
たった9年でこのような状況になったのである。さらに10年余がたち、状況はいよいよ悪化している。真の意味のトラウマは見えなくなっている。(http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=2377)
■トラウマを越える人々
自分流のトラウマを財産のように扱う人はあとを絶たない。しかし、その一方で、騒がしい時流に背を向けて、深いトラウマ=外傷をかかえつつ、苦闘し、ひとり静かに超えていく人もいるだろう。
『文藝別冊・神谷恵美子』に「苦しみの記憶を「遺産」へ。――2014年・国立療養所長島愛生園訪問記」という記事もある。編集者の清田麻衣子氏による紀行文である。
訪ねた島の風景、納骨堂、曲がりくねった療養所の道、かつて収容時に使用した消毒風呂や大部屋の病室などの写真が掲載され、文章が綴られる。
88歳の入居者が出てくる。彼は21歳の時に入所したというから昭和22年頃の入所だろう。昭和30年から絵を描き始め、たいそうな腕らしい。ということは、30代から40代にかけ、療養所という場所で、神谷としっかり空間を共有していたことになる。彼はハンセン病を病んだことをふせて、絵を描き続けている。展覧会で彼の絵を見た東京の画商やアメリカの会社経営者から買いたいといってくる。しかし売らない。絵を描くこと、一筋である。
そのような彼だから、インタビューに答えても、名前は出さないし、写真も撮らせない。「神谷美恵子さんは知っていますか?」とたずねたその答えがいい。
――「見たことはあるよ。みんなに親しみをもたれていた方だったと思うよ。話をしとる人はたくさんおったけど、でもぼくは直接話したことはない。ここに引っこんでずっと絵を描いとるから」/そう言ってまたこちらの期待に応えられないことを申し訳ないというふうな笑顔で笑った――(p159)
そうだな。神谷恵美子と話をしないまま、長島愛生園を過ごした人も数多くいただろう、とぼくは気づく。つまり、精神科医に近づくことなくトラウマを越えた人も数多くいたし、今もいるのだ。88歳の彼のような人々が、世界の果てでしっかりたたずみながら、社会全体に広がる自分勝手な喧騒の振えを沈めているのかもしれない。
ところで、訪問記には島の火葬場の写真はなかったが、いまも保存されている。例の解剖の光景もぼくのなかで気になり続ける。