なんとなくサンネット日記

2015年5月30日

コットン・クラブ

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:37 PM
また会いましょう

また会いましょう

日曜日、車を走らせていた。NHKFMからエルビス・プレスリーのアメイジング・グレイスが聞こえてくる。

エルビスの生誕80年を記念した番組。ジャーナリストの轡田(くつわだ)隆史さんが、エルビスは黒人霊歌をたくさん歌っていると語る。

ジェームス・バーダマンさん(早稲田大学教授)は、この曲アメイジング・グレイスは18世紀に奴隷船の船長だったイギリスの男が作詞したと教えてくれた。

そうだったのか。知らなかった、結婚式でも歌われる美しいメロディーに奴隷船といった背景があったなんて。

ジェームス・バーダマンさんに触発されて、彼の書いた『アメリカ黒人の歴史』(2011年、NHKブックス)を読んでみることにした。

読むほどにアフリカ系アメリカ人について何も知らなかったと、あらためて気づく。

1865年、南北戦争で北軍が勝利し、奴隷制度が解体された。それは知っている。しかし、黒人の社会的解放までは徹底しなかった。むしろ、南部では、戦後再建期に「解放」が後退し、アフリカ系アメリカ人は市民権を再び剥奪され、二流市民として囲い込まれるようになったという。

19世紀後半は隔離政策が進行し、白人によるリンチ事件が各地に広がる。その一方、アフリカ系アメリカ人による社会活動(融和主義的であったり急進的、独立運動であったり)も展開し、一部だが、ビジネスに成功する人々も出てくる。人として生きたいという願いは後戻りできないのだ。

地位向上と暴力的抑圧がアフリカ系アメリカ人をめぐってせめぎあい、渦巻く時代であった。歴史は逆流しつつも、逆流を押し流す大きな流れも同時に存在した。

やがて、20世紀初頭のニューヨークのハーレムで、アフリカ系アメリカ人の文化再興である「ハーレム・ルネッサンス」が起きた。文学、音楽における文芸運動である。しかしその中身は実に混沌としていた。次の文章を読んでほしい。

 

 おそらく、ほかのいかなる場所よりも1923年に公式にオープンしたコットン・クラブほどハーレムの音楽を集約したところはなかったといってよい…往時の綿花プランテーションを彷彿とさせるデコレーションにつつまれていて、ステージも農園主の大邸宅のベランダになぞらえて作られている。

 コットン・クラブ・レビュー、それは白人のブロードウェーと音楽出版社が集まる(通りの一角)の作曲家たちによって構成、作詞・作曲され、20人のカフェオレ色の肌をした女性歌手とダンサーが出演した…週給50ドルを稼ぐため有色人種のふりをした白人女性もいた。顧客は、白人のみであった。(p172-173)

 

当時は禁酒法時代。ギャングが勢力を伸ばすハーレムに、白人のためのクラブ。そこでアフリカ系アメリカ人の音楽と芸を次々と発展させた。デューク・エリントン、ルイ・アームストロング、キャブ・キャロウェイ,レナ・ホーン…。

しかも、アフリカ系アメリカ人のふりをする白人すら出現する。これが20世紀のニューヨークの「ルネッサンス」だった。

以前このブログで、ネィテブアメリカンではないのに、ふりをするワナビー(I wanna be=偽者)についてふれたことがあった。ところが20世紀初頭には、アフリカ系アメリカ人のふりをするワナビーがすでにいたということになる。

http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=236

それまで見えない存在だった「奴隷」が、人として立ち現れようとする。そのとき“酒と女”“暴力と金”のコットン・クラブという混沌、歴史に逆流する白人のワナビーが現れるという猥雑。これらを超えなければならないのが、歴史というものらしい。

 

たとえば、障害者が人として存在できる社会を形づくろうとしている今の日本社会にひきつけて考える。すると、白人のワナビーが、昨年の佐村河内守氏のような事件と結びついて、連想される。好悪の個人的な価値を超え、時代の節目には偽者=ワナビーというものが、いつもついてまわることを認めなければならない。大きな歴史の流れのなかで生じる部分的逆流の存在の先を見通す巨視的な見立てが必要だ。

歴史とは、単調なハイウェイや静かに流れる川のように単純な因果で結ばれているものではない。干満の差から起きる逆流する波、ポロロッカすら含みこみ、滔々と流れるアマゾン川のような大河に違いない。複雑な生態系が織りなされ、川面は小舟や大型船が行き来し、月の満ち欠け、雨季、乾季によって岸辺の村は相貌を変えながら、河は悠久の時を刻み、ひたすら海をめざす。歴史もまた到達すべき「海世界」を探し、そこに向うのだ。

2015年5月5日

蒸発しない自由

Filed under: つぶやき — toshio @ 10:34 AM
鳥の声と風の音

鳥の声と風の音

大澤真幸が、「市場による道徳の締め出し」ということを言っている(『自由という牢獄 ―責任・公共性・資本主義』大澤真幸、2015、岩波書店)。貨幣への欲望が、道徳価値観を排除してしまうということだ。それはよくあることだと思う。

金に目がくらんだ人間が、悪徳を行う事件はよく聞く。それに、それほど極端でもなくとも他人の目がないところで1万円を拾ったら、善人であったとしても、自分の懐に入れてしまう。そう多くの人は思っている。金は人を不道徳にさせる、それはひとつの「常識」だ。

しかし大澤は、もう一歩、踏み込む。

たとえば、勉強がよくできる子どもがいる。父親は「学年で10番以内に入ったら、海外旅行をプレゼントしよう」と言う。ただでさえ勉強ができるのだから、その子はもっと勉強するに違いない、たいていの人はそう思う。高価なプレゼント(金)がその子を不道徳にするとは、思わない。

私たちは、そのときは「自分がしっかりしていれば、貨幣(金銭)はさらなるやる気として働く」と信じている。つまり、金と道徳心は別もの、という「常識」ももっているということだ。

金と道徳は、重なり合っているのか、それとも別なのか。私たちの「常識」はそのときどきで二つのものさしを使う。

ところが、大澤はいくつかの心理実験を紹介し、道徳的な喜び、少しでも創造性を発揮する喜びは、金銭を得る喜びと別のものであり、前者と後者は同居できないと述べる。創造性―道徳―喜びとつなげると、なぜ私たちが二つの物差しをもっていたか、少しわかってくる。

確かにそうだ。海外旅行をプレゼントされた子どもはよく勉強するだろうし、その結果、よい学校に入るだろう。でも高校なり、大学なり入った後、虚無感に襲われたりする。目的を失ったようになったということを聞いたことがある。

単純な作業(勉強)と報酬(プレゼント)を結びつけて成長したものの、内面では、創造性と喜びが結びつきにくかったのではないだろうか。

――貨幣的なインセンティヴ(やる気を与える刺激)が加わると、つまり形式(貨幣)への欲望の中に回収されると、一般に、創造的な作業に伴う魅力は低下し、そうした作業への意欲は小さくなる。…にもかかわらず、ほとんどの人は…金銭的な報酬があるほうを望む。なぜか、おもしろくなく、魅力が乏しい方に、多くの人が集まるのだ――(p303)

 このように大澤は問いをたたみかける。当たり前だと思っている私たちの「常識」をひっくり返してくれる。これは面白いと僕は読んだ。

――自由は、有意味なことを選択したという自覚とともにある。もし、「それ」が意欲をかき立てない、つまらないことと感じられていれば、「それ」をなすことは、自由の行使としては自覚されない。選択肢は確かにあり、外的な制限が加えられていないのに、主体は、それを選んだことを、自由の有効な行使とは見なさない。これが、自由の蒸発である。――(pp303―305)

 私たちは、創造性―道徳―喜びに裏うちされた自由を望んでいるということだろう。深い意味を持たない「選択」には決して自由は存在していないという大澤。ぼくもそう思う。そして話は広がっていく。

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