なんとなくサンネット日記

2015年3月31日

尽くす「つくし世代」

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:19 PM
咲いた咲いたバッケが咲いた

咲いた咲いたバッケが咲いた

いつの時代だって、人間の意識は変化し続けたのだから、いつの時代の年寄りも「最近の若者は!」と嘆いたに違いない。だから、実は、若者に理解あるように振舞う年寄りのほうが、怪しいのかもしれない。

とは言うものの、情報と金をめぐる変化は加速度的に早まっている現在。かつての時代のように嘆いていても、嘆きが追いつかなくなってしまった。どうしようと思う。

1980年生まれの藤本耕平氏が、『つくし世代--「新しい若者」の価値観を読む』(2015年、光文社新書)を書いた。著者は、広告会社のアサツーディ・ケィに勤める、若者対象のマーケッターだ。今年35歳の著者が、30歳以下の「若者」の、社会や環境の変化によって生み出されている意識や傾向について論じる。若者への共感をもちながら、彼らの動向にむかって市場をどのように展開できるかと考える彼の筆に嘆きはない。

 

――今時の若者たちは欲がない、消費をしない、とよく言われますが、彼らにとって、それは必ずしもネガティブなことではありません。もっとポジティブに「いかにお金を使わないか」を楽しんでいるところもあります…仲間たちとのつながりを大切にし、「みんなで楽しみたい」「みんなで喜んでもらいたい」ということに対しては、上の世代と比べても貪欲であるように思います。

そのためなら(デフレ世代で効率を重視する彼らが)、時間も手間も惜しまず、時にはポンとお金も使う。

そういうことを、道徳観や社会性などに基づいてではなく、「その方が自分もハッピーだから」「喜んでもらえると嬉しいから」というシンプルな動機に基づいて行おうとする、仲間たちの喜びのために奉仕し、尽くそうとすることが、より日常的な行動原理、消費の原理にもなったいる若者たち。

それが私が考える「つくし世代」です--(p33‐34)

若者の意識

若者の意識

この本を読んで学ぶべきことがたくさんあった。特に、若者の中に芽生えている新しい傾向を見ようとする彼の姿勢は、しっかり受けとめたいものだ。

マーケティングに携わっている彼は、著書の中でいくつもの資料を提示するのだが、左の表に現れた若者の意識には驚く(p51)。

今年成人になった若者の92.2%は「自分は人からペースを崩されたくないタイプ」と思っていて、かつ85.5%は「人に気を遣うタイプ」と思っている。独立していたいという気持ちと、人と仲良くしたいという気持ちがミックスした若者がほとんどということになる。

人間関係への両義的な態度のように見えるが、具体的なだれだれとの関係ということではなく人間関係そのものに緊張感をもっているということなのだろう。

いじめを受けたことがある人が55.3%、自殺を考えたことがある人が41.5%というのはその根拠かもしれない。

関係に緊張しながら、しかし自分の周りにハッピーな関係を作りたいと願う「つくし世代」。ぼくには“連帯”を求めているように思える。しかし、それは上からの、囲い込むような連帯では決してなく、下からあるいは横並びで、ハッピーになるための「連帯」にちがいない。

これは年寄りたちもいっしょに考えなければならない課題だと思う。

2015年3月11日

身体性

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:52 PM
マッハの自画像

マッハの自画像

ふと思い出して、浜田寿美男さん(発達心理学者、奈良女子大学名誉教授)の講演記録を読み直しました。以下は記録の一部です。(日本社会臨床雑誌17巻2号、2009年11月、p11)

 

 「マッハの自画像」という有名な絵があります。…人は内側から世界を見ているということを、この図ははっきり示しています。19世紀末に活躍した物理学者であり哲学者でもあったエルンスト・マッハという人が、友だちと哲学談義をしているときに自画像の話になって描いたのがこの絵です。

 通常自画像は、ゴッホの自画像のように、自分を鏡に映して、外から見た自分を描いたものですが、文字通りリアルタイムで自分で見えている自分を描くとこうなります。

 これは、言ってみれば、(左目の)瞼の裏側から自分が世界を見ているという絵です。右側の円弧のようになっていて少し盛り上がっているところが自分の鼻、鼻の左側にもじゃもじゃしているところが髭です。その向こうにカウチに足を投げ出して鉛筆を持ったマッハの下半身が描かれているのです。

 …『希望の原理』という本を書いたエルンスト・ブロッホという哲学者がいますが、彼はある本のなかで、希望の宿る場所は、描かれることのないことの空白の場所にこそ希望は宿っているのだ、と言うのです。

 マッハの自画像が示しているのは、人が身体の内側から世界を見つめ、世界とつながっているということではないかと、私は思っています。心理主義的に内面を見つめるのではなく、身体を持ってこの内側から世界につながるそのかたちを心理学は描けないだろうか、と私は思っているのです。

 

私たちは、いろいろな方法で他者を理解します。

夕食を共にしたり、スポーツをしたり。お宅に誘われて、写真を見ながらおしゃべりをしたり。特に理解したくなくとも、職場が一緒だったり、近所だったりすればそれなりに振舞って、さらっとした理解をします。サークルや市民活動で、密接な交際になることもあります。

何か差し迫った課題があるとき、あるいは教育や福祉などの特殊な関係にあるとき、時として、別の方法をとります。相手がどのように考えているか、考え方のクセがあるのか、自分の理解が及ばない人なのか、探ろうとする方法です。見えない箱の中に何が入っているかを当てるように、その人の「心理」を探ろうとします。

すると、知的障害、神経症的、依存的などといった、その人の外側にある概念に結び付けて、納得した気分になったりするのです。

それはいまや「当たり前」です。自分を表現する場合にも「病名」を役立てることもあります。外側指向といった傾向があるのです。

私たちが身体をもって内側から世界を見ているのであるなら、人は内側からどのように世界を見つめているかと考えるのはまっとうであり、外側から、覗きながら外側のものと結びつけようとするスタンスは根本的におかしいことになります。

外側指向の考え方は、考える対象のとらえ方以前に、自分の身体を切り捨てて思考しているからです。身体性を失った思考は、私たちの世界のとらえ方自身をゆがんだものにさせるのではないでしょうか。

浜田さんがいう「描かれないところに希望が宿る」というのは、身体性があるからこそ見えないところ、描くことのできないところが生まれるということにかかわります。身体性が切り取られたとき、思考は完璧な自由を得て、すべてを見る力を獲得したかのようになります。ところが、ただひとつ、希望だけが見えないということになります。これは面白いジレンマです。

視覚、あるいは視覚的な思考方法には限界があるということでしょう。それにしても、見えないところに宿る希望とはいったいどのようなものでしょう。

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