なんとなくサンネット日記

2015年2月21日

王様は、裸だ!

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:35 PM
おいしい水だよ 青森市安方2丁目

おいしい水だよ 青森市安方2丁目

昨年、佐村河内守氏事件は、気になった事件のひとつだった。

聾者の振りをして、楽譜が読めないのに作曲家の振りをした。いったいどういうことだろう。しかも、作曲自体、ほとんどできないのに。「現代のベートーベン」と形容されていた。かつてこのような事件があっただろうか。

謝罪記者会見のときにさえ手話通訳者がいた。身体障害に該当する程度の障害はないと告白した会見なのに、全聾といっていた虚像を引きずっていた。不思議な光景だった。

いろいろな通訳者が彼にかかわったと思うが、通訳者はどのように感じていたのだろう。聞こえると思った人もいただろうが、そう思いつつ沈黙したのだから、その人は詐欺の片棒を担いだのか、守秘義務を守ったのか。福祉関係者としては気になるところだ。

結果、74分もの交響曲のCD――偽が積みあがった物体――が20万枚も売れた。どうしてこういう事態になってしまったのだろう。奥さんや家族、自叙伝の出版に協力した人々、NHKスペシャルを製作放映した人々、音楽関係者…はどのように今を生きているのだろう。

こんなことが気になっていた。

そこで、佐村河内守氏事件を週刊文春で暴露したジャーナリスト神山典士がまとめた『ペテン師と天才』を読む。(『ペテン師と天才――佐村河内事件の全貌』、神山典士著、2014年、文言春秋)

結論は、「「自分の欲望にあまりに正直なペテン師(佐村河内守氏)」と、「便利に使われた音楽馬鹿の天才(新垣隆氏)」の起こした事件だった」(p311)という。

読み通して印象的だったのは、佐村河内氏の、虚像を構想し続ける執念の恐ろしさだ。彼は軽はずみにその場しのぎで糊塗するタイプではない。「史上最高」「超超超絶」といった単純な言葉を好み、その実現を信じぬいた。執念が何年にもわたって虚像を重ね、そのあげく、しっかり作り上げられた壮大な世界。彼自身それを信じていたのだろう。

通常人には見えない遠方を望む彼の視界からは、他者があまりに些細なものに映っていたようだ。人を道具として扱い、傷つけた。

その一方、彼の魅力と力に従い、寄り添い、まとわりついた人々がいた。が、それらの人々の責任は定かではない。

新垣隆氏やこの本の著者らの努力によって、裸の王様が見えるようになったのは、多くの市民にとってありがたいことだ。虚像を包み込む虚構を引き剥がすには、大変な努力がいったことだろう。しかし、まだまだ虚構の深部はわからない。

私たちは何か大切なものを手放して、その失われるエネルギーの反作用の世界に、佐村河内氏を作ってしまう虚構の世界があるようだ。鏡のように現実が反射しているが、それは現実ではない…そのような気がする。

 

『ペテン師と天才』  http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163901848

2015年2月16日

野生の(もう一つの)正義

Filed under: つぶやき — toshio @ 11:37 AM
モクレンは春をまっています

モクレンは春をまっています

これは、イヌやオオカミの遊びについて考え抜いた、動物学者の言葉です。遊びが何かを考えていけば、公正さを考えることにつながるというのです。

マーク・ベコフ(コロラド大学ボルダー校名誉教授)の『動物たちの心の科学』(2007、訳高橋洋、青土社、2014年、pp154-155)からの引用です。

 

動物の遊びは、個体同士が協力しあうことに同意し、他にすべきことがない場合にのみ、そして遊んでいるあいだは、身体の大きさや社会的地位の差異を無視したり、無効化したりすることで、成立し得る。

 …大きな動物と小さな動物が一緒に遊ぶこともあれば、また地位の異なる動物同士が遊びあう場合もあるが、どちらか一方が力や地位を行使する状況下では、遊びは成立しない。

 他の社会的な状況より不平等が寛容されるという点で、遊びは独自だと考えてよいだろう。複数の個体が活動に参加することを選択しなければ、遊びは起こり得ない。また、続けるには平等や公正さが必要であるという点で、それ以外の協力関係(狩猟や介護など)とは一線を画する。

 おそらく遊びは、唯一の平等的活動と言えるのではないか。集団の調和を維持するために個体間の差異を無効化する一連の社会的なルールや規則として、正義や道徳性を定義するなら、それらはまさに、動物の遊びのなかにも見出すことができる。

 

現代社会の私たちが、平等や公正さに関するできごとについて想像をめぐらせば、ギスギスした権利主張、眉間にしわを寄せて訴える社会的正義といった風景が頭に浮かびます。

しかし、マーク・ベコフは、正義や道徳性の起源には、あの子犬の遊びにあると言うのです。たとえば私たちも、子どものころ、若い頃に、ころころと遊びまわった楽しさ、どんどん広がる喜び、こういったことが平等や公正さの起源だとしたら。ほんとうにイメージが広がります。

私たちは、時として、それがほんとうの平等か、この主張している公正さは真実か、このようなことを判断するときがあります。いままで、私は、このような場面に出会えば理屈で考えました。法的にはどうかな。論理性があるだろうか…と。

もしマーク・ベコフの言うとおりなら、理屈ではない感性を働かせてもいいことになります。ある人の主張のなかに楽しさや喜びを感じるか。その人の主張が実現すれば、みな喜ぶか。楽しい空間や時間を作れるか。こういった判断もありえるということかもしれません。理屈とはまた別の判断軸です。

それはとても大切な判断であると思います。ただ、その判断を言葉で語ることはむずかしいかもしれません。

参考:

オオカミとサルの道徳(2011年1月18日)http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=850
契約と詐欺師(2011年1月29日)http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=872

 

2015年2月4日

それは祈りに近い 憎むは人の業にあらず

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:42 PM
冬の浅虫温泉

冬の浅虫温泉

 

 邦人人質事件がニュースで流れた1月20日。それからつらい時間をすごしてきた人が多いと思う。

 そして最悪の結末。被害者のご家族、ご友人の方々が癒されるには、気が遠くなるほどの時間を必要とすることと思う。

 多くの人が、慰めあい、共感し、やさしいぬくもりを交わすことを求めているだろう。

 

 その一方、巷では、テロに屈しないなどと勇ましい言葉が繰り返される。

国家であればそれはそうであるだろうが、何のために戦うのかをはっきりさせなければ、憎しみが憎しみを増幅させかねない。

なぜ、勇ましい言葉が強調されているのか、私たちはじっくり目を凝らさなければならない。

 

日本社会に、憎しみ、冷淡、非難、トゲトゲした感情が広がっているように感じる。

テロに屈しないことによって、平和が得られるのだろうか。

 

愛している人を守り、友人を助けるために平和を求めたい。

愛している人が困っていれば助けたいと思い、いっしょに苦しみを分かち合いたいと願う。

いっしょに語り、信頼し、思い出を共有する。共有している思いがあるから、遠く離れても互いに気遣う。心がつながっている。

かの地で地震があった、爆撃があった。すると大丈夫だろうかと心配し、メールをし、電話をかける。瞬時に私たちは動く。

 

愛する人、友人のネットワークが広がる。それが平和をつくる唯一の道だろう。

気遣って、心配し、助けたいと思い、愛すること。それがテロに屈しないということだと思う。

 

日本の外交官、政府の要人はそのような友人を、愛する人をそれぞれの地でつくっているのだろうか。

そういった友人を思い出しながら、テロに屈しないと言っているのだろうか。

そのような友人が少ないなら、真の情報収集・分析もありえるのだろうか…気になる。

 

国際問題も、日本の政治も大きな曲がり角に立っている。

だからこそ、人を愛することが行動の基点であってほしい。

 

自分もこの社会にいるし、だからこの社会を支えたい、という思いをなくしてはならない。

他人ごとのように社会や世界を扱うニヒリズムに陥ってはならない。

 

自分の気持ちを思いっきり口に出さなければならない。

誠実に語り合える社会をつくる努力が今こそ必要だと心底思う。

 

世界と向き合う

世界と向き合う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日、板垣雄三東大名誉教授が今回の事件について論評している。

アラブ世界、世界全体を視野に含んで考えなければならないという老学者の腹の底から吐き出すような提起だ。

重く受けとめたいと思う。いまは思慮深くなければならない。

 

 

(論評に「ナクバ」という言葉が出てくるが、イスラエル建国時のイスラエルの軍事組織によるパレスチナ住民の虐殺、排除のこと。アラビア語で「大破局」「大災厄」のことである。)

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