なんとなくサンネット日記

2014年10月11日

「正常病」に近代を見る

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:40 PM
秋の畑

秋の畑

つくられる病--過剰医療社会と「正常病」(ちくま新書、2014)、著者は井上芳保。「正常病」とは異な言葉だ。

――つくられる病を問題化し、「正常病」に言及する本書では、健康や医療の話が多々出てきても、それらは医学という枠にも、また医療社会学という枠にも、必ずしも留まっていない。学問的に危なっかしいと思う人もいることだろう(p24)――

(東洋経済ブックレビュー記事 http://toyokeizai.net/articles/-/49312

こんな書き出しで始まるが、井上は、実は、読者を挑発しているようだ。「危なっかしいことを言うけど、ついて来れるかな」というように。

著者は冒頭からいろいろな事実を突きつける。
統合失調の診断と治療によって翻弄された中学生や女子大生の例。薬剤資本によって推し進められた子宮頚がんワクチンの接種無料化。血圧の正常値がころころ変わっている現実。

この世は、医療業界の都合で病気がつくられていると、医療化社会の課題を指摘する。

医療化社会の広がり、つくられる病の蔓延にたいして著者は深い疑念と怒りをおぼえる。この状況は、製薬会社、専門家、行政など「お偉いさん」が私たちの知らないところでそれをつくって、高々度から落下して、私たちの社会が変わっているのだろうか。そうではないだろうというのが井上の立場だ。

「皮肉を込めて」「正常病」という言葉を持ち出す。「正常病」とは強迫的に健康でありたいと生きざるをえなくなっている多くの人々のことである。

「正常病」の人々は競争社会に悩み、自己責任を強いられている。その一方、医療化社会を支えもする。「正常病」の人々は病気の人や精神病の人を敬遠する支配構造を作ってしまうのだが、そのようにして医療化を必要とする土壌をつくり、健康を望む欲望はなおいっそう強迫的になっている。

では、病気の人はひたすら忌避される存在か、というとそうでもない。「病気に立てこもる」人々がありえるという。「正常病」の人々と病気の人の間に葛藤はあるのだが、医療化社会によって両者は結ばれている。ここには三角関係がある。

その三角関係を成り立たせる役割をもった人々もいる。「いわゆる『弱者』にやさしい『人権』理念」があり、「自分は被害を受けた。痛みを感じた」と言うと、親切な看護人が押し寄せる社会の構造になっている」(p136)。これらの人々は、「正常病」の人々と「病気に立てこもり」人々との緩衝帯だろうし、両側の人々にとっては(二重の)エージェントになっているのかもしれない。

医療経済は医療化社会を生み出し、そのもとで医療化された日常を「正常病」の人も、病気の人も、支援者も生きていて、その日常社会が医療化社会を「充実・発展」させている――そういう図が描かれる。

こういうふうに読みすすめてくると、すべての事象が医療化社会へと結びついているように思えてくる。ぼくなどは、ある部分で、エッ、そこまで言っていいの!と思ったりもする。

しかし、ともかく著者の挑発にのせられ、ここまで運ばれてきてしまうのである。

井上がいいたいのは、ここからだろう。ぼくはそう思った。彼は、医療化社会というレンズを通し、ゲーテ、ウェーバー、フーコーの思想と生き方を手がかりに、近代が人々に植えつけた不安、強迫性、欲望、俗物性を見いだす。そしてその先を描こうとする。理屈っぽいところだが、社会と心のありようの相互作用が作り出す医療化社会という幻影。それが生み出す残酷さ…。この全部を話そうとすれば、とても長い話になりそうだ。

ともかく、健康と病気はきっぱり別のものと考える若い読者層が、この本からなんらかのインスピレーションを受けたらいいと思う。健康に関する社会的なできごとはあまりにも多く、あたかも「自然な」事象だと思い込まされている。この思い込みを引きはがすには力がいる。

井上は最後で次のように述べて、しめた。

――グローバル化が進み、のっぺらぼうの非人格的なシステムが生活世界を覆い尽くそうとしている今、批判的に捉え返さねばならないのは生活の細部にて力を発揮する「わるい」もの、活動を低めるものである。とりわけ医療化する日常生活において蔓延する「わるい」ものに的を絞って…考察を進めてきた(p252)――

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