なんとなくサンネット日記

2014年7月14日

物語ることの拒絶

Filed under: つぶやき — toshio @ 10:51 AM
平塚神社のオニユリ

平塚神社のオニユリ

東京に日帰りする。

朝、新幹線のなかで新聞を読む。日曜日の読書欄は楽しみだ。

いとうせいこうが、星野智幸の4年ぶりの小説『夜は終わらない』の書評を書いていた。

書評をこえた「お話」になっている。楽しい。

 

(小説の主人公の玲緒奈である)彼女はあらかじめ何ひとつ持っていないのだ…だからこそ、玲緒奈は物語を欲する。殺そうとする男たちから、それが一夜の遊びのごときふりをして、夜伽を求める。

…玲緒奈はそれを聞く。物語がわずかでも自分に関係し、世界に小さなよりどころを見つけ、生きる実感に触れられる時間を求めて。

彼女が必要とするのは逃避のための物語ではない。文学周辺で物語批判が徹底される一方、経済がそれを細切れにしてネットで数分ごとに更新する日々。政治は甘いだけのキャッチ不レースで粗雑な話を語ってやまない。

これでは人生を構造化する契機がないのだ。玲緒奈にも、我々にも。ゆえに、よく似た物語を別な者が生きているという比較も出来ず、他者を構造化出来ない。

つまり、何でも手に入るように見え、ボタンひとつでそれが自宅まで届き、意見はすぐに書き込めて発表出来るかのごとき時代の我々は、ニセの“暴君”なのだ。玲緒奈と私たちは重なっている。

そこに物語が必要になる。生きる方法を認識するために。(朝日新聞。2014.7.13)

 そうなのだ!人生や他者を構造化するというためには、物語ることが必要なのだ。情報の集積ではなく、情報をつなぐための「つなぎ」の集積=物語が、自分や他者をかたちづくるのだ。

そしてもうひとつ。その反対のことだが、物語らないこと、それは人が人としてきちんと立ち上がることを妨げ、人を情報に断片化していく作用となるのだ。

私たちの日常に、次々と立ち現われてくる問題。たとえば、更新し続けるネット情報、流動化して不確かな社会、やたら現れてくる暴君や「ニセ物語」、死語と化した「義理と人情」、スマホを眺める乗客が横並びに座る電車…。

これらを「物語ることの拒絶」の現象として考える。すると何か通底する問題が見えてくる気がする。

「物語ることの拒絶」への抵抗。これが求められているのだろう。きっと…。

新幹線はもうすぐ、上野につくようだ。

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