なんとなくサンネット日記

2014年6月30日

「プリズンブレイク」を思い出した

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:21 PM
龍神水の鯉

龍神水の鯉

 『造反有理――精神医療現代史へ』(立岩真也、青土社、2013)を読み始めました。http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791767441

 著者の立岩氏は立命館大学の社会学者です。この本のなかの、精神科医森山公夫のかつての文章からの引用です(1975年の本)。

 ――(大学・医局)講座制を解体せしめるには、どうしたらよいのであろうか。告発者が大学を去るのでは問題はまったく始まらない。なぜなら、真の解体とは、内部解体でしかありえないのだから。…大学を去るのではなく、大学に居続けることの中から徹底的に大学講座制の悪徳を告発し続けること。こうして権力の座をおり、権力を抗する運動を組み続けると同時に、「患者の犠牲による医学の進歩」なる虚妄な幻想を排し、まず目の前にいる一人一人の患者との真のわかり合い、それとの苦闘の中にしか真の医療はありえないのだということの自覚に立つのが、まずもっての出発点である。そして(ママ)地点からわれわれは、誰と真に連帯しえるのかを模索してゆかなくてはならない――(p104

 当時、森山たち「告発者」(既存の医療体制を厳しく批判した医師たち)は、東大赤レンガ病棟を占拠し、自主管理していましたが、その状況と思想を語った文章です。

 権力/システムを、解体し/創出する場、その現場をめざしたかつての時代。ぼくは医療の現場にいたわけではないから、また聞きですが、ぼくはこの思想世界に並行して暮らし、影響を受け、育てられてきたのです。

 権力を解体し、自由を語り、解放を求めた諸活動は、自らの重さで、あるいは管理側のガードの高さによって、権力の横暴さで、ないしはわけのわからない経過から、それぞれ敗北していきました。

 『造反有理』の著者、社会学者の立岩真也は、このような行動をとった医療従事者たちを「造反派」と呼び、その「理」を記録したいと考えた。――「解放」を求めて「過激」な――と言われた――運動を展開した「本人」たちへの言葉を記録し記録してもらい、文字にするhttp://www.arsvi.com/ts/20120021.htm)ことにしたのです。

 とはいえ、「造反派」は各地であまたの活動を起こし、分裂し、対立が生じ、その外側にいる別のいくつかの立場との対立もあって、あたりまえですが無関心に別の道を歩んだ多くの人々もいるのですから、その全体を描こうとすれば膨大な資料を読み込まなければなりません。すごい量です。しかし議論の厳密さ、相違にこだわるのではなく、全体の見取りをつくろうとした、それがこの本のようです。

 まるで、資料のカタログのように展開していくこの本を読み進んで、連想したのは、10年ほど前のアメリカドラマ、「プリズンブレイク」。主人公のマイケルが、死刑囚になってしまった兄を実力で救いだすために、壁いっぱいにいろいろな情報を貼り付けて、マッピングするシーン。刑務所の排水溝、物置小屋、職員に関する情報、監視塔…。

 かのマイケルのように、立岩氏も「造反」に関する資料を壁(きっと体育館くらいの大きさになるのでしょうが)いっぱいに広げてくれました。刑務所から脱出する道をマイケルが見つけ出すのはこれからであるように、ぼくたちが「造反」のマップから何らかの意味を汲みだすためには、もうひとつ、違った努力が必要です。

 それにしても、造反という歴史が「記録された文字」として読み手から離れ、客観的な存在としてマップされていくには、立岩氏の書き方の手法が大きく作用しているといえます。それは、たとえばこのような箇所です。

 ロボトミー手術は、批判されたために減少したのではなく、「減少期にも、そうしたものを依然として肯定し続ける人もいるし、行い続ける人もいた」。ロボトミー批判がおきたのは、「社会運動が個別の糾弾・反差別闘争に場を求めていく、求めるしかなくなっていく時期」、73年以降の告発・裁判闘争によってであったが、「そのことは(いまは)忘れられているか、知られていない」…(P129)。アンダーラインのように動詞の繰り返しが、ある主語から、動詞がいく方向にか枝分かれし、別々の主語に結びついていくような感覚を生み出しています。配線図のようなマップができていくのです。

 しかし、一方で、ロボトミー手術が減っていくうえで「まともに反省されたことがあったようには思われない」などと氏の観点ははっきり言い切ります。すると、マップから離れた、第三者的な視点が浮かび上がり、その視点が読み手に伝わります。読み手はマイケルのように複雑なマップから離れて立つことができます。とても上手な書き方だと思いました。

 

 ずっと前のことです。秋の雨もようの午後、ぼくはある病院の院長室を訪ねていました。飾りのない、いささかくすんだ部屋でした。院長と話していた最中に、電話がかかってきました。「ああ、ちょっと待って」。話を遮られたぼくは、目をそらしました。電話の話を聞くのは失礼と思いました。とはいっても、窓の外には日の当たらない、建物のあいだの、狭い庭ともいえない小さなスペースしかありません。見るべきものはありません。

「ふん、ふん。薬がなくなって寝られないんだね。帰りに薬を届けるよ。そうだね…」。自然、院長の話が聞こえてきます。

 電話を切ると、患者さんからだったとひとこと話して、すぐにもとの話に戻りました。ぼくも、この先生は夜に患者の家に薬を届けようとしているんだと思いつつ、話に戻りました。

 たったこれだけの話です。院長はこの本のいうところの造反派ですが、その時ぼくが感じたのはもっと人間的なあたたかみでした。『造反有理』を読んでいて、不思議と、このことが記憶の底から浮かびました。

 こういう話はマップされません。削除されるのは当たり前です。ただ、マップの奥に必ず存在している、あるいはマッピング以前に存在していた、このような情愛、信頼、静謐さ…はたまた、その反対の、喘ぎ、暴力、嘘などを見つめるのは、また別の努力が必要でしょう。マイケルが直面したのは建物などの物質。でもこの本が直面しているは人々の人生、つまり、奥深い知恵や価値に関係する事柄なのですから。

 さて、この本をもう少し読み続けることにしましょう。

2014年6月4日

花壇

Filed under: お知らせ — toshio @ 3:52 PM
ミツデイワガサが顔を出しました

ミツデイワガサが顔を出しました

 

4年も5年も前に植えた花。

枯れたと思っていた。

 

今年、きれいな花をつけました。

Powered by WordPress