なんとなくサンネット日記

2014年3月31日

1966年

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:34 PM
ある先生

ある先生

中学3年の頃の写真です。何かの授業でふざけていたぼくたち3人組が座らせられました。

ぼくたちを座らせた先生がどこかに行くということになり、そのあいだ、ぼくが先生の代わりに本を読む羽目に。だから椅子に座っている。それを面白がった誰かが撮った写真です。

座っているのはたぶん大原君と根地嶋君ではないかと思います。清水市立第二中学校3年10組。教壇の机はベニヤ、入口の戸は傾いています。もう50年近く昔のことですから、いまの学校とはずいぶんちがっています。

このような年、1966年に同じ町で「袴田事件」が起きたのです。

6月30日、有限会社王こがね味噌橋本藤作商店の専務の自宅が放火される。焼跡から専務、妻、二人の子どもの計4人の他殺死体が発見される。そして、8月18日、従業員で元プロボクサーの袴田巖が逮捕される――。これがいわゆる「袴田事件」です。

同じ清水。当然、地域では大騒ぎになっていたはずですが、ぼくはまったく覚えていないのです。もっとも同じ清水といっても、ぼくの中学は中心市街地からやや山手。市街地を中心におけば、ぼくたちは時計で6時の方向、事件の場所は9時。中学生にとっては別世界だったのかもしれません。

ずっとあとになり、袴田さんが無実を訴えて、再審請求を起こしているか、起こす準備をしている頃、本か何かで目にしました。1980年代になってから、清水に事件があったことを知ったのです。ぼくは30歳をこえていました。

そして、さらに30年。今年、3月27日、静岡地裁は「袴田事件」の再審開始し、死刑及び拘置の執行停止を決定しました。袴田巌さんは東京拘置所から釈放されました。長い月日は残酷ですが、それでも自由になって良かったなあと思います。

たくさんの報道がなされていますが、そのなかでこんな記事が気になりました。

 

 1審・静岡地裁で死刑の判決文を書いた元裁判官、熊本典道(のりみち)さん(76)は「公判で袴田さんが『やっていません』と言った姿が忘れられない。思い出すと涙が出る」と、今でも悔やみ続けている。

 真っすぐに裁判長を見据えて受け答えする袴田死刑囚の様子や、任意性に乏しい供述調書などを通じ、「有罪認定は難しい」と思っていた。だが、結審後に判決文を検討する中で、結果的に先輩判事に押し切られた、と振り返る。

  半年後、耐えられず退官し、弁護士に転じた。合議の秘密を破り、第1次再審請求中の2007年、「無罪の心証があった」と告白したが、請求棄却が確定した。先月末には古巣の静岡地裁を訪ね、再審開始を求める上申書を提出。「自分は他の裁判官を説得できなかった。償いをしたい」と訴えた。【荒木涼子】http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140327-00000015-mai-soci

 

誤った決断をしたことを悔やんだ人が、袴田さんの脇を伴走するように、苦悩する人生を送っていたのですね。公職をなげうち、守秘義務を破り…。

そして、組織の圧力のなかで袴田さんを追い込んだ人たち、誤った判断をした人たちは沈黙して日を送ったのですね。いまも…。

人生とは不思議なめぐりあわせの万華鏡です。何が正義でしょう…。

2014年3月28日

遊びは協力的

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:01 PM
おいしいものがあるかな

おいしいものがあるかな

 ここまで、わかった、驚くほど、豊かな、動物たちの、感情世界―‐と本の帯にあります。

 『動物たちの心の科学』(マーク・ベコフ、2007、訳者高橋洋、青土社、2014)は動物の情動について扱った本です。

 次のできごとは彼の学生が観察したことです。

--今日、体重およそ50kgのマラミュート犬の愛犬タロウが遊んでいました。タロウは自分の大きさの四分の一くらいしかないチビという名の変わった犬と遊びたがったのです。タロウはプレイバウをしました。プレイバウとは頭を下げ、お尻をあげて遊ぼうと誘う仕草のことです。

 タロウは吠え、尻尾を振り、仰向けになって転がり、突然立ち上がり、もう一度プレイバウをしました。ところが、チビはそれにまったく応じません。無関心な様子をして立っているだけだったのです。

 1分ほど時間が経過し、どこかの大きな犬が放尿したばかりの茂みをタロウが嗅いでいると、チビがぶらぶら歩きながら近寄ってきて、タロウの首にかじりついたのです。そのとき私は「やっちまっちゃった。こいつ、タロウに殺されちまうぞ!」と思いました。

 ところが、タロウはハエを追い払うかのように肩越しに払いのけ、振り返ってプレイバウをしました。そして、この小さな犬の頭を持ち上げてそっと口に含んだのです。

 それから30分間、二匹は一緒に遊び、そのあいだタロウは決して独断的な態度をとったり、不公正に振る舞ったりはしませんでした。チビをそっと噛み、軽くたたき、転がり、前足で顔をさわっていたのです。遊びが少々荒っぽくなると、チビは尻尾を垂らしながら後ずさりをし、やり過ぎたかどうかを確かめるように頭を左右にかしげました。するとタロウはもう一度プレイバウをし、二匹は遊びを再開しました。

 どうやらタロウは、この小さな仲間と遊ぶためには相手を気遣い、公正に振る舞わなければならないことを知っていたようです。二匹は互いに相手のしたいことを知っていたのです。そして協力しあいながらそれを手に入れたのです。イヌとは何と賢い生き物なのでしょうか。自分の目が信じられないほどでした。(P157-159)

 この観察はいきいきとした素晴らしい観察です。(原著はタロウの名はジェローム、チビはファードですが、「日本名」にし、やや省略しています)

 マーク・ベコフはこのことから次のように述べます。

 動物が遊ぶときには、その旨に同意しなければならない…公正に振る舞い、協力し合う…協力の言語は、誰にでも簡単に見分けられる。…協力的で公正な関係が損なわれると、遊びは中断するばかりでなく、継続不能になる。非協力的な遊びなどというものはない(P159)

 遊びが成立することによって、社会的な規範の土台をつくることになるといいます。信用、協力、礼儀、公正、寛容、謙虚、共感、正義…といった構成要素が、ベコフのいう道徳性をかたちづくるのです。

 美徳、平等主義、道徳性の起源は、人類よりも古い…しかしもっと重要な指摘をすると、動物の寛容、公正、信用、協力についてもっと学ぼうとすれば、おそらく私たち人間も。より思いやりに満ちた協力的な社会を営んでいけるようになるのではないだろうか。(p182)

 遊び→協力・共感→公正→道徳性というふうに立ちあがっていくのですね。これは興味深い指摘です。

 私たちの社会には、いじめがあったり、欺きがあり、そして他者にたいして不寛容で拒否的なムードが広がっています。しかし、その根っこにあるものは、協力して遊ぶ(ベコフに言わせれば同義反復でしょう)ことがむずかしいという現象なのかもしれません。

 「遊べない私たち」が多くの問題を生み出してのです。協力・共感できないのではなく、遊べないのですね。いま、真に遊ぶということが求められているのでしょう。そしてそれがよき社会づくりに関係させていく。

道徳の奥に遊びがあるっていうイメージはいいなあ。でも、協力して遊べないでおかしくなったできごとって、たくさんあったよなあ…。真に遊べるまで、不幸なこと、残念なことは避けられないのだろうか?動物に学ぶことはたくさんありそうです。

2014年3月11日

言語と思考

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:37 PM
やよいの風

やよいの風

■言語のわな

今月の『ちくま№516』(筑摩書房のPR誌)に、人間の思考について、おもしろい対談がのっていた。それは、森達也の「私たちはどこから来て、どこに行くのか、№24。なぜ脳はこんな問いをするのか(1)」。

森達也は映画監督(56年生)。ぼくは見たことがないが、オウム真理教信者達の日常を追うドキュメンタリー映画『A』の監督だそうです。

そして対談の相手は、池谷裕二。東大薬学系の准教授、脳科学の研究者、サイエンスライターです(70年生)。

池谷は“いけがや”と読みます。静岡・藤枝の出身だそうです。思い出したのですが、静岡・清水育ちのぼくにも、同級生の“いけがや”君がいましたね。(平泳ぎが得意だったなあ…。)

彼は言語について、こんなおもしろいことを述べています。

――言語の使用は自分の射程距離を伸ばすんです。たとえばこのガラスでできた器に、コップと名付けるだけでなく…私たちは心的に内的投影をする。言語の視線が届く地平線まで、心の視点を移動させることができるのです。そうすれば次は、その地平線ポイントを視点において、さらに遠方の地平線まで眺めることができるんです。こうして心の射程距離が圧倒的に伸びる…言葉なしには到底思いも寄らないような、例えばクォークのような微視的世界や宇宙のような巨大世界までも想像できる――

――言語はもともと、社会性の涵養や記憶の補強、他者に対する理解のために使われるものだった。ということは、私たちは、言語を本来の用途以外に使っていることになる。ここで言語の副作用として「自己を問う」という名のトラップ(注:落とし穴、罠)が生まれて、私たちはそれにまんまとはまってしまっている。これはもう無限ループなわけですよ。仮に「自分って何だろう」という問いの答えが出たら、その答えを吟味して、さらに「そんな答えを出している自分って何だろう」という上位の問いを自分に投げかける――

言語の延長力は、外側に伸びると有益だが、内側の自己に戻ってくると無意味だという池谷さんの論理は、奇妙です。脳が獲得した言葉の延長力は、脳のなかの世界で働いているもので、向きなどあろうはずがありません。私たちがあると思っている内と外は、脳のなかでとりあえず、そのように思わせているものだと思うのです。

そんなことは百も承知の池谷さんが、有責性と無益性でまじめに区別して論じています。池谷さんは、きっと、「自己を問う」といった種類のことに重きをおかない、ニュータイプ(?)のサイエンティストなのでしょう。

この対談がどう進んでいくか、楽しみです。

■思考のはて

何人かの友人が、映画『ハンナ・アーレント』を見に行ったと言っていました。すると、奥さんも行って、良かったと言っていたので、ぼくもつられて行きました。http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

いい映画だと思います。1960年代初頭、アイヒマン裁判を傍聴し、読み解いた女性哲学者ハンナ・アーレントはその独創性ゆえに、欧米の世論からバッシングを受ける。しかし自分の信念と意思に従って生きようとする。

ここでは、思考が問題になります。思考と言語と良く似ています。

かつてハンナ・アーレントが師事したハイデガーはこう言いました。

――思考を行ったところで知識にはならない…思考したところで、行動する力を与えられるわけでもない…我々は思考する。我々は考える存在だからだ――

私たちは思考から逃れられない。私たちの源泉だ。思考は、世俗的な価値にではなく、存在にかかわっているというのです。ならば、その私たちの存在とは…。

そのように考えを推し進めていけば、アイヒマン裁判は究極の場面だったことでしょう。

何百万ものユダヤ人を収容所のガス室に送った最高責任者アイヒマン。彼が犯した罪は、人類がかつて経験したことのないものです。ということは、彼はかつてない「野獣のような人間」か、「冷酷非道な人間」なはず。世論は、そのようにアイヒマンを描いていたのです。

ハンナ・アーレントは、資料を分析し、裁判に参加しました。

――(アイヒマン)は検察に反論しました。何度も繰り返しね。“自発的に行ったことは何もない…命令に従っただけだ”と。こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです…人間を拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名づけました――

彼女は、世論と正面衝突してしまったのです。それでは極悪非道のアイヒマンを弁護しているのと同じだと。すると、ハンナはこう反論したのです。

――アイヒマンの擁護などしていません。私は彼の平凡さと残虐行為をむすびつけて考えましたが、理解を試みるのと、許しは別です。この裁判について書く者には、理解する責任があるのです――

理解する責任、これは重い言葉ですね。つい、私たちは「分かりやすい」とか「理解できた」などという言葉を受け身的に使います。そうではなく、「理解」とは能動的で、社会性のある言葉になのですね。さらに彼女は言います。

――アイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です…思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事にね…“思考の嵐”(たくさんの思考)がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅にいたらぬよう――

人間存在とは、どうしても善悪などの人間的な価値にかかわるのですから、思考は、そこに関与していくのだとハンナ・アーレントはいうのです。

思考や言語がもっている、いっけん無意味と思われる自己再帰性は、善悪の区別に関係しているのかもしれません。つまり、延長力はもう一度、私たちに戻ることで価値を創造するのであって、外側で存在しているわけではないということになるかもしれないのです。これはぼくにとって刺激的なことです。

(さて、今日は東日本大震災から3年。この状態のぼくたちは、なおいっそう、思考や言語の力が求められているはずです。)

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