中学3年の頃の写真です。何かの授業でふざけていたぼくたち3人組が座らせられました。
ぼくたちを座らせた先生がどこかに行くということになり、そのあいだ、ぼくが先生の代わりに本を読む羽目に。だから椅子に座っている。それを面白がった誰かが撮った写真です。
座っているのはたぶん大原君と根地嶋君ではないかと思います。清水市立第二中学校3年10組。教壇の机はベニヤ、入口の戸は傾いています。もう50年近く昔のことですから、いまの学校とはずいぶんちがっています。
このような年、1966年に同じ町で「袴田事件」が起きたのです。
6月30日、有限会社王こがね味噌橋本藤作商店の専務の自宅が放火される。焼跡から専務、妻、二人の子どもの計4人の他殺死体が発見される。そして、8月18日、従業員で元プロボクサーの袴田巖が逮捕される――。これがいわゆる「袴田事件」です。
同じ清水。当然、地域では大騒ぎになっていたはずですが、ぼくはまったく覚えていないのです。もっとも同じ清水といっても、ぼくの中学は中心市街地からやや山手。市街地を中心におけば、ぼくたちは時計で6時の方向、事件の場所は9時。中学生にとっては別世界だったのかもしれません。
ずっとあとになり、袴田さんが無実を訴えて、再審請求を起こしているか、起こす準備をしている頃、本か何かで目にしました。1980年代になってから、清水に事件があったことを知ったのです。ぼくは30歳をこえていました。
そして、さらに30年。今年、3月27日、静岡地裁は「袴田事件」の再審開始し、死刑及び拘置の執行停止を決定しました。袴田巌さんは東京拘置所から釈放されました。長い月日は残酷ですが、それでも自由になって良かったなあと思います。
たくさんの報道がなされていますが、そのなかでこんな記事が気になりました。
1審・静岡地裁で死刑の判決文を書いた元裁判官、熊本典道(のりみち)さん(76)は「公判で袴田さんが『やっていません』と言った姿が忘れられない。思い出すと涙が出る」と、今でも悔やみ続けている。
真っすぐに裁判長を見据えて受け答えする袴田死刑囚の様子や、任意性に乏しい供述調書などを通じ、「有罪認定は難しい」と思っていた。だが、結審後に判決文を検討する中で、結果的に先輩判事に押し切られた、と振り返る。
半年後、耐えられず退官し、弁護士に転じた。合議の秘密を破り、第1次再審請求中の2007年、「無罪の心証があった」と告白したが、請求棄却が確定した。先月末には古巣の静岡地裁を訪ね、再審開始を求める上申書を提出。「自分は他の裁判官を説得できなかった。償いをしたい」と訴えた。【荒木涼子】http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140327-00000015-mai-soci
誤った決断をしたことを悔やんだ人が、袴田さんの脇を伴走するように、苦悩する人生を送っていたのですね。公職をなげうち、守秘義務を破り…。
そして、組織の圧力のなかで袴田さんを追い込んだ人たち、誤った判断をした人たちは沈黙して日を送ったのですね。いまも…。
人生とは不思議なめぐりあわせの万華鏡です。何が正義でしょう…。