なんとなくサンネット日記

2013年12月29日

言いあっていいという文化

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:30 PM
力を合わせる

力を合わせる

年の瀬もおしつまりました。

今年もいろいろな人と出会い、さまざまなことがありました。

よかったことのひとつは、DVD『癒しの家(Healig Homes)』を知ったことですね。このDVDは、アメリカの心理療法家ダニエル・マックラーが、取材・制作したドキュメント。スウェーデンのファミリー・ケア財団の活動実践を紹介しています(字幕日本語訳:鶴田みさ)。

(ダニエル・マックラーのHP)http://wildtruth.net/dvdsub/ja/%E7%99%92%E3%81%97%E3%81%AE%E5%AE%B6/

精神科治療でうまくいかなかった人たちが、農家で1,2年過ごし、そこでの回復をうながすプロジェクトです。農家の家族と暮らし、仕事をする。そのなかで回復していくというのです。

受け入れる農家は「ホスト・ファミリー」と呼ばれ、財団の心理治療者たちは彼らを支えます。また、精神保健に問題をかかえた人にも心理療法を行うそうです。ただ、療法というと「白衣を着て、面接室で」というイメージがありますが、まったくそうではないようです。もっと人間的というか、普通っぽいというか…。

先駆的なプロジェクトですので、利用している人、受け入れ側の農家の家族、治療者たち、それぞれ魅力的。でも、やはり主人公は、農家と利用者。彼らが主人公でありえるようにしつらえている治療者たち、という関係になっているようです。いい関係です。

DVDには7,8人の治療者たちが出てきます(なぜか、みな40代から50代あるいはそれ以上?なのが不思議ですが)。その治療者たちの言葉には考えさせられました。以下、そのいくつかをひろってみました。

 

ヨアキム(男性)「(治療チームは)お互いを信頼し合っている。お互い怒鳴りあうことができる。それから『私の意見に同意して!』と率直に言える。

そうすることは、そんなに大変じゃない。私たちが会う人々(クライアント)もそれを感じると思うんだ。そういうことを言っていい(治療―被治療関係の)文化を作っているんだ」

 

マリア(女性)「自分は(クライアントより)重要ではないように、権威的にならないようにしているわ。こうは言うわ。『これは私は大切だと思うし、こういうことは信じているの』。その人にとってのベストな考え方を見つけられるようにするの。

『私の話をきかなくてもいいのよ、リラックスして』って言うわ。私の言うことが何か面白かったら、それが届いていっしょに話せるようにって思うの」

 

テオ(男性)「人々(クライアント)は問題があってここに来る。レッテルと診断つきで。そんなの(診断名は)何とも思わない。他の人たちがどう言うかも。

人々に会う会い方がある。レッテルや診断なしで。ただ会うだけ。何をもってきたのか、何が欲しいのか。それが敬意というものでしょう。」

 

ボス(男性)「精神病の経験のある人なら、自分のために誰かが時間をとって、座って、言うことを分かろうとしてくれているのが。きっと好きだと思う。どこかの部屋に置き去りにするのではなく、薬ですべて取り去るのはなくてね。

人間の問題はバラバラの入れ物に入っているのではなく、数直線の上にあると思うんだ。みんな、そのどこかにのっているとね。ぼくたちみんな、この(数直線の)つながりが欲しい。みんな、聞いてほしいし、見てもらって、確認してほしい。みんなそうだと思う。

それが人間の基礎…いしずえだ。その上に(人間関係や回復を)建てていく。こうした経験のある人たちにそれをしないのは、ほんとうに馬鹿なことだと思うよ。馬鹿だよ。もっと必要としているんだ。この人たちは誰かを必要としている。彼らを見て「調子はどう?」って聞いてくれるのを。そして、彼らが聞こうとして、交流をもとうとすることを。」

 

カリーナ(女性)「人々(クライアント)が来たとき歓迎されていると感じて欲しいわ。誰でも仲間になりたいのよ。仲間に入るってことは、自分の中から何か示すことでもあるわ。(治療者が)それをしなかったら(クライアントは)仲間とは思えないでしょ。」

また来年、すてきな出会いがありますように!よろしくお願いいたします。

2013年12月7日

私が私と約束する

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:38 PM
大雪の鯉

大雪の鯉

今年のぼくたちの望年会をめぐって、ささやかな「政治的課題」が起きています。それは、望年会をノンアルコールで統一するかという課題です。

サンネットを1999年に始めてから、望年会でも感謝の集いでも、交流を目的とした場をアルコール可としてきました。ただし、飲み物の選択は本人が決めて自己負担すること、周囲に飲酒をすすめてはいけない、もちろんアルコールが嫌いな人は飲まなくてもいい、これがぼくたちの「ルール」でした。

以前はずいぶん飲む人がいましたし、いろいろなドラマがありました。最近は、飲酒する人はどんどん減りました。一人あたりの飲む量も減りました。喫煙者も減ったし、ずいぶん「行儀」のよい雰囲気の交流イベントになっています。

行儀がいいのに、あえて「ノンアルコール」という議論がおきたのは、依存傾向のあるメンバーから「ノンアルコールの望年会」の要望がだされたからです。そのメンバーは自分が飲まなくても、アルコールのある場にいたら“スリップ”してしまいそうだというのです。

いままでの、飲みたい人も飲みたくない人も共存しようという「ルール」を、きちんと考え直す機会になりました。

アルコールを飲みたいという人もいます。でも、ノンアルコールに譲ってもいいよという人もいます。

たくさん飲みたいということではないけど、つらいことがあった今年、ささやかな楽しみのひとときをもちたいという人もいます。ぼくには、その事情がわかるだけに、強く主張できないタイプの彼らを擁護したくなります。

メンバーには、ノンアルコールにしないならば、要望したメンバーを“排除”することになると考え、「ノンアルコール望年会」を支持する人もいます。

ところが、“ささやかな楽しみ”を欲する声は(ほとんど主張していないのですから)支持は広がりません。議論の雰囲気は、飲みたい人と、飲みたくない人の「要望」の対立のように受けとめられ、「世論」の多数派は「ノンアルコール望年会」支持派のようです。

でも、はたして「個人の要望」が問題なのだろうか…ぼくは思うのです。そうではなくて、望年会という場をどうするか、会のあり方を考える「考え方」が問題になっているのではないかと。

「要望」は個人に属していて、場は誰かがつくるもの。だから、その場が私の「要望」を受け入れないとしたら、私は排除されたということ――よくある考え方です。しかし、ここには身勝手さとナイーブさが同居していると思うのです。排除するな!という積極さ・強引さ。排除したと思われたくないという戸惑い・恐怖感。その二つが交差し、混合しています。

場と個人をくっきり分けて、場を利用する個人がいて、その反対側には「場の支配者」がいる(とらえ方よって「支配者」ではなく、あまり価値を含まない「管理者」、あるいはねたみを含めて「特権者」、「そのうち出し抜く上司」…いろいろな位置づけがあると思います)。しかし、このような図式に、ぼくはずいぶん違和感を覚えてきました。

場と個人の相互関係――場から恩恵を受けたので、これからは逆に貢献したい、場の維持に参加し、責任をはたし、これから参加する後輩の成長に貢献したい――このような立場をなくしてしまっていいのか、と思うのです。

このようなおり、ぼくにとってはタイムリーだったのですが、『社会契約論――ホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ』(重田園江、2013、ちくま新書)という本を読みました。

女性政治学者である重田氏の著作です。力作だと思います。ルソーらの著作をギリギリまで読み下し、生活実感のレベルで理解しようとする著者の努力に頭が下がります。その努力にもかかわらず、私の理解はついていけないのですが、理解できたこともあります。それに、うまく言葉にできませんが、共鳴・共感したところもたくさんありました。

本の帯には、本文からの引用が書かれています。

 人が他者との間にどうしようもない違いと隔たりを感じ、同情や共感そのものが吹っ飛ぶような、なんというか強烈な場面に遭遇したとき、その場に立ち尽くすしかなくなる。…いまになって思うのは、そういう経験が、「この社会は間違っているんじゃないか」あるいはもっとストレートに「社会は間違ってるんじゃないか」という思いの原動力になることだ。…社会契約論は、人が他者との間の埋めようのない隔たりを前にして、それでも何かしたいと願うとき、つねにそこに立ち返る一般的な視点を示してくれる思想なのだ。(P274-278)

 重田氏がこの著作のなかで書きたかったのは、過去の固定した論理の説明ではありません。いまを生きるため他者や社会について考えるための視点、そのことの議論だったのです。

そもそも社会とは、人々の集団と個人という異なるレベルをよりあわせて成り立ちます。二つのレベルには大きな溝があるため、接続させるために、自分の靴紐をひっぱって空に浮くような、論理と思想のアクロバットが必要らしいのです。

難解な論理とそれを貫く思想、これらを接着剤にしなければならないようです。人も社会(集団)も同じ「人間」の側面。でも、まったく違う相貌。この異なるものをつなげようとするエネルギーから、近代の人間観・社会観が生まれたのです(ぼくたちの「望年会問題」も、個人の「要望」と集団の「場のあり方」をめぐって悩んでいるのですから、ここの問題に通底するものがあるのでしょう)。

ルソーは自著の『社会契約論』で、個人と集団をこのように述べます。

 結社行為は、公衆と個々人とのあいだの約束を含み、また各個人は、いわば自分自身と契約している。そのため二重の関係で――すなわち、主権者の成員として個々人に対して、国家の成員としては主権者に対して――約束していることになる。(『社会契約論』第1篇第7章――重田氏の『社会契約論』p179)

  この引用だけで理解することはなかなか困難でしょう(詳しくは重田氏の本を読んでください)。ぼくなりにかいつまめば、次のようになります。

ルソーは、個人には、個人の集団としての「主権者」と、主権者を構成する「個人」の二つの面があって、だから「主権者」と「個人」が約束して社会が成立することになるが、それは、つまり自分が自分と約束しているのだといいます。この二面性が確保されて、個人が主権者として成り立つのだとも。これを250年前に主張したのです。なんという革命家なのでしょう。

場と個人をくっきり分ける図式的な考え方は、ルソー以前に戻ってしまうことかもしれません。やはり、「要望」を述べる「私」は、場をつくる「私」でもあることによって、「私」は「私」であり得るのです。

…ぼくたちの課題は、さて、どうなりますか。

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