万葉の歌である。
言霊の 八十の衢(ちまた)に 夕占(ゆうけ)問う
占正(うらまさ)に告る(のる) 妹(いも)相寄らむと(あいよらむ) (『万葉集』2506)
現代語にすると次のようになる。
言霊の多い、多くの道が分岐する辻で(人の言葉を聞いて)夕占をする。
その占いにはっきりと出た。彼女は私になびき寄るだろうと。
「八十」は、数が多いことの喩えとしてよく使われる語である。ここでは、「言霊の――八十」と続くとともに「八十の――衢」とも続き、二重の機能をになっている。つまり、言霊が多く存在することと、多くの道の分岐になっていることを重ね合わせた表現である。
第三句に「夕占問う」とある。夕方、道の交差点になっている辻に立ち、そこを通行する人が発することばを聞いて事の吉凶・成否を占うのが、「夕占(を)問う」という行為である。多くの人々が行き交う辻では、人々が発することばもまたさまざまに行き交う。そこに立つ作者がどのようなことばを耳にするかは、まったく予想がつかない。吉と出ることばも多ければ、凶と出ることばも多い。そのことを述べたのが、「言霊の八十」である。この歌は、作者である若者が「夕占」を行い、「妹相寄らむ(彼女は私になびき寄るだろう)」という結果が出たことを述べたものだが、その結果に対する喜びの感情をおさえた表現になっている。(『言霊とは何か――古代日本人の信仰を読み解く』、佐佐木隆著、中公新書、2013年、p11-13)
著者の佐佐木によれば、万葉の時代、さまざまな霊力をもつ神は、人間社会とまったく関係なくその力を発揮するのではなく、人の言葉によって促され、人の言葉のなかにその意思を表したという。
したがって、神との関係において、霊力とことばと、そこから引き起こるできごとは密接な関係をかたちづくった。言(こと)と事(こと)は同源であるそうだ。
私は夕方のたそがれ時、人の行きかう道に立つ。ぼんやりした夕闇のなか、人の顔かたちがはっきりとしなくなる。それでも誰かと誰かは「お久しぶり」「こんばんわ」とことばを交わす。何やら笑い声も聞こえる。せかす声、呼ぶ声、ヒソヒソ話。
私はことばの群れに耳を傾ける。そして、そのなかから、愛しい人との逢瀬を占おうとしている。
なんといい世界だろう、と思う。
いまや、ことばと神の世界を結ぶ魔法はとかれた。ことばは霊力を失い、自由になった。だから、現代の夕暮れの辻は、万葉の時代より何万倍も華やかであるにもかかわらず、さみしくなった。
自由なことばの群れは、結ばれる自分の根っこを求めてさまよっているのかもしれない。ぼくらはこころの奥でそう直観するから、夕暮れがさみしいのかもしれない。暮れゆく暗がりにむかい、切なくこころが伸びていく。