
花を植えます
「初心」には多くの可能性があるが、「専門家の心」にはほとんどない
禅師の鈴木俊隆のことばだそうだ。ここでの初心とは、無垢な心。過去や未来にとらわれず、現在にしっかりととどまる心である。
当然だが、専門家の心は、過去と、過去が推定する未来であふれている。そして過去と未来に挟まれた現在はか細い。ゆえに人間的可能性は少ない、というのだ。
世間で認められているものが正しいわけではないし、目指すものがあるからこそ、目指すものを後ろにおかなければならないこともある。人間存在にふれる、いい話だと思う。では、人間とはいかなる存在か…と思いをめぐらせたくなる。ここには禅マスターが語る深い真実がある。
この話はイギリスの心理学者ケビィン・ダットンが取り上げているのだが、彼のいいたい眼目は、サイコパスと聖人にはなんらかの共通があるということだ。サイコパスには、無垢ではないかもしれないが、聖人と同じように冷徹に現在にとどまれる能力があるという。http://www.nhk-book.co.jp/engei/info_2010/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00816022013
ジェットコースターのような論理。ぼくにとっての「いい話」は、気がついたら表通りから街場の路地裏に入りこんでしまったように、刺激的な喧噪と、すえた匂いがただよい始める。
サイコパスは社会的逸脱を起こすのであるが、サイコパス的特質をほどほどに活用する人は、もちまえの冷静沈着さと断固とした決断によって社会を豊かにしているという。サイコパスという言葉は診断名ではない。犯罪学、犯罪捜査場面での概念だ。だから、かつては、治安管理的に使われるのではないかとたくさんの議論があった。
ケビィンは「普通」からある人々を切り離すためのカテゴリーとしてこの言葉を使わない。サイコパスは、極悪の犯罪者から社会の中心の人々まで幅広く広がっている「人間的な傾向」だと主張している。昔の議論をおぼえているぼくはめまいを感じてしまう。
彼がインターネットを使っておこなったアンケート調査は、その広がりを実証的にかいま見せる。アンケートでサイコパス傾向をテストし、その人の職業との相関を調べた。その結果、サイコパス度の高い職業は、「企業の最高経営責任者」、「弁護士」、「報道関係」、「セールス」、「外科医」、「ジャーナリスト」、「警察官」、「聖職者」。そして、低い職業は「介護士」、「看護師」、「療法士」、「職人」、「美容師」、「慈善活動家」…が続くという(P277)。
前者の職業は金や情報を扱う。後者は対人関係である。前者の活動領域はどちらかというと「名詞的」であるように見え、後者は「動詞的」に思える。この差もおもしろい。
ともかく、ほどほどのサイコパス的傾向であれば、社会的に成功するのだろう。確かにそうだ。それに、この10年、社会全体がサイコパス的になっているという。流動化、複雑化、速度が速まる社会は彼らにとって良い環境なのだ。9・11貿易センタービルの崩壊、アフガニスタン・イラクの戦争。アラブの春が生まれ、その後の混迷。リーマンショックにヨーロッパ危機。サイコパスでなければ生きていけないかもしれない。
ぼくらはたいへんな時代を生きていると思うのだが、サイコパス的な最高経営責任者が増えるより、多くの聖人が生まれてほしいと願う。
しかし、あらわれてくる聖人たちは、名詞と動詞のどちらに関心を向ける人たちなのだろう。はて…?