なんとなくサンネット日記

2013年6月29日

初心

Filed under: つぶやき — toshio @ 10:16 PM

花を植えます

 「初心」には多くの可能性があるが、「専門家の心」にはほとんどない

 禅師の鈴木俊隆のことばだそうだ。ここでの初心とは、無垢な心。過去や未来にとらわれず、現在にしっかりととどまる心である。

 当然だが、専門家の心は、過去と、過去が推定する未来であふれている。そして過去と未来に挟まれた現在はか細い。ゆえに人間的可能性は少ない、というのだ。

 世間で認められているものが正しいわけではないし、目指すものがあるからこそ、目指すものを後ろにおかなければならないこともある。人間存在にふれる、いい話だと思う。では、人間とはいかなる存在か…と思いをめぐらせたくなる。ここには禅マスターが語る深い真実がある。

 この話はイギリスの心理学者ケビィン・ダットンが取り上げているのだが、彼のいいたい眼目は、サイコパスと聖人にはなんらかの共通があるということだ。サイコパスには、無垢ではないかもしれないが、聖人と同じように冷徹に現在にとどまれる能力があるという。http://www.nhk-book.co.jp/engei/info_2010/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00816022013

 ジェットコースターのような論理。ぼくにとっての「いい話」は、気がついたら表通りから街場の路地裏に入りこんでしまったように、刺激的な喧噪と、すえた匂いがただよい始める。

 サイコパスは社会的逸脱を起こすのであるが、サイコパス的特質をほどほどに活用する人は、もちまえの冷静沈着さと断固とした決断によって社会を豊かにしているという。サイコパスという言葉は診断名ではない。犯罪学、犯罪捜査場面での概念だ。だから、かつては、治安管理的に使われるのではないかとたくさんの議論があった。

 ケビィンは「普通」からある人々を切り離すためのカテゴリーとしてこの言葉を使わない。サイコパスは、極悪の犯罪者から社会の中心の人々まで幅広く広がっている「人間的な傾向」だと主張している。昔の議論をおぼえているぼくはめまいを感じてしまう。

 彼がインターネットを使っておこなったアンケート調査は、その広がりを実証的にかいま見せる。アンケートでサイコパス傾向をテストし、その人の職業との相関を調べた。その結果、サイコパス度の高い職業は、「企業の最高経営責任者」、「弁護士」、「報道関係」、「セールス」、「外科医」、「ジャーナリスト」、「警察官」、「聖職者」。そして、低い職業は「介護士」、「看護師」、「療法士」、「職人」、「美容師」、「慈善活動家」…が続くという(P277)。

 前者の職業は金や情報を扱う。後者は対人関係である。前者の活動領域はどちらかというと「名詞的」であるように見え、後者は「動詞的」に思える。この差もおもしろい。

 ともかく、ほどほどのサイコパス的傾向であれば、社会的に成功するのだろう。確かにそうだ。それに、この10年、社会全体がサイコパス的になっているという。流動化、複雑化、速度が速まる社会は彼らにとって良い環境なのだ。9・11貿易センタービルの崩壊、アフガニスタン・イラクの戦争。アラブの春が生まれ、その後の混迷。リーマンショックにヨーロッパ危機。サイコパスでなければ生きていけないかもしれない。

 ぼくらはたいへんな時代を生きていると思うのだが、サイコパス的な最高経営責任者が増えるより、多くの聖人が生まれてほしいと願う。

 しかし、あらわれてくる聖人たちは、名詞と動詞のどちらに関心を向ける人たちなのだろう。はて…?

2013年6月18日

内と外に引き裂かれる

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:41 PM

港の夕べ

  映画『愛、アムール』を見ました。見終わった後、不思議と、いろいろなシーンが何度も浮かんできます。いい映画なんだなあと思います。http://www.cinemadict.com/

 東奥日報に紹介が載ったときからみたいと思っていたフランス映画。静かな暮らしを送っていた80代の芸術家の夫婦が、老いと死に直面するストーリーです。

 …(パリのコンサートホール)哀愁と気高さに満ちたピアノ曲の後、幸せな余韻に浸る夫婦が帰宅したところから物語は始まる。カメラはもうその後、2人が暮らすパリの部屋を出ることはない。翌朝、突然の病の襲われた妻と、介護をする夫の日々をひたすら見つめる。

 手術に失敗した妻は「もう病院には戻らない」と宣言する。時折訪ねてくる娘は再入院を勧めるが、妻の願いを受け入れた夫は共に自宅で暮らす覚悟を決める。

 「あなたは怖い時もあるけど、優しいわ」といった会話やいたわりあいの場面が、2人が重ねた時間の豊かさを伝えていく。だが閉じた空間で悪化する病と向き合い、介護にも追われるうちに、夫婦の感情のやりとりは緊張感を増す…(東奥日報、2013.4.4)

 物語はこの通りだけど、いろいろな見方が生まれる映画です。老い、死、介護問題…に関心を寄せる人もいるでしょう。パリの暮らし、老夫婦の静かな生活、素晴らしくも長い人生…を読み解く人もいるでしょう。説明はなく事実だけが積み重なり、物語が進むのですが、事実の群れから象徴があふれます。

 夫婦の住むアパルトマンの管理人は、人のよさそうな人。ミネラルウオーターの箱を運んでもらって、チップを渡す。高慢な若い女性のヘルパーが来たので、辞めてもらおうとした時、悪態をつかれる。かつての教え子だったピアニストが来訪するが、妻の病状は彼を悲しませ、それが夫婦を悲しませる。妻の病が進行し、入院を勧める娘との葛藤。水差しからの水を拒否する妻。ピアノを弾く妻の幻影。窓から突然部屋に入ってきた鳩…。

 良くありそうなできごとと、突然訪れる驚きの織りなす下りのラセン階段。

 映画批評家の北小路隆志は、自宅(家族)=安全安心の空間、「管理=支配可能な空間」というイメージが、実は内包する“管理・支配の不可能性”を描いているといっています(映画パンフ)。それは、安全なはずの場所の危うさ、所有しているはずの空間が思い通りにはいかない、日常のなかから生まれる非日常…といったことです。

 そういえば、最初、夫婦がコンサートからバスで帰宅したとき、部屋のドアが、ドライバーか何かでいじられていたことに気づくシーンが思い出されます。何者かが押し込もうとした形跡に、妻は「こわいわ」といい、夫は「プロの仕事ではない。せっかくのいい気分が台無しになる」といっていました。怖いこと、つらいことは外からやってくることを暗示していたのです。それは私たちがいつも抱いている前提的な意識です。

 ところがその夜、妻は頸動脈狭窄症を発症。それからは、老い、病、死を部屋のなかで見つめ続けることになるのです。家のなかにある「それら=老い、病」は管理不能、支配不能なもの。いままでの人生のなかで安心だと思い続けてきた空間=場所で、コントロール不能なものに真っ正面から向き合わなければならない。そのプロセスに人生の怖さと、二人の気品ある姿に荘厳さを感じました。

 人はいくたびも困難に向きあいます。そしてその困難を私たちは乗り越えてきました。しかし、最大にして最後の困難が、私たちのすぐそば、身の回り、あるいは身の奥から私たちに向かってくる。それはどのように向き合うものなのでしょう。

 僕ら人間は、生と死のあいだに引き裂かれた存在である……との普遍性にまで本作において高められる事実に僕らは感動を覚える。最後まで〈老い〉や〈病〉と戦うために籠城を続けた末、ついには〈死〉を受け入れる二人の男女。その際僕らにとって究極の外部であるはずの〈死〉は、もはや災厄とも僥倖とも見分け難いものとなる(北小路隆志)

 勝利なき戦い、老いや死。それは向き合い続け、受け入れるとき、その受け入れた人のなかに勝利を超えるものがあるというのでしょうか。

 

 さて、もう一つ。もし、自宅(家族)が安全安心の空間とは思えない人がいたら、安全安心を求めて外に向かうかもしれません。そういった人はどこで「管理不能」なものと向き合うのでしょう。「それ」と向き合うのは、何とか管理・支配ができるかもしれないとどこかで信じようとすることで、向き合えるはずだからです。

 もともと、空間の管理・支配はできない、と思う人は…どのようにこの問題を乗り越えているのか。管理できないけどやり過ごす、恐ろしさから目をつぶる、自分だけをたよりに敢然と挑戦する…いろいろなタイプがあるのでしょう。

 北小路のいう「管理不能性」は「管理可能性」をとりあえず信じることから生まれます。ならば、「管理不能性」から出発して、いかに「管理可能性」に至るのか。これは、また別のテーマです…。

2013年6月15日

屋根の上にのぼらない

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:39 PM

白い日差し

■大阪府立大学の松田博幸さんが、素敵な言葉を紹介していました。

それは、カナダ・ケベック州の精神保健オルタナティブ団体連合のニューズレターで、行政のリカバリーに関する活動について、警戒的に述べた記事の一部だそうです。

「オルタナティブ団体は、たとえ人びとのリカバリーを支援していても、リカバリーの実践をしているんだぞ、と屋根の上から声高に叫んだりしないのです」

これは素晴らしい言葉だと思います。このような姿勢を生み出す思想の母体はどのようなものでしょう。

リカバリーとは、本質的に、人間的でかけがえのない過程であり…個人的アイデンティティの感覚を発見、あるいは再発見する、過程なのです。それは、希望に満ちた、豊かな、満足のいく人生を生きる方法…

このような哲学的、実践的土壌から、この言葉が生まれたのでしょう。

ここには、人間存在に関係しているリカバリーとその活動は、合理的に制度化された考えや活動、戦略的な行為、他者を支配や操作しようという「市場」にありがちな姿勢などとまったく別のものだ、という信念があります。

人間存在の価値と社会的な価値観とをしっかり分けられるからこそ、屋根の上や屋根裏に登らなくてもいいのでしょう。

 

■バザーリアについて

イタリアの精神科医フランコ・バザーリア(1924-1980)は、精神病院の建設と新規入院を禁止する法律180号(1978年、通称バザーリア法)の制定に大きな影響を与えた人物です。

札幌学院大学の井上芳保さんは、バザーリアは、より良い精神医療を求めたわけでも、精神医療の解体自体を目的にしたわけでもない、人間存在の苦悩を精神病院という壁の向こうに追いやるような「制度」を変えたいと望んでいた、ととらえています。

この法により、イタリアでは精神病院は廃絶されました。

それから20年以上。現在、地域の精神保健センターに行って感じるのは、受付ではいつも誰かがおしゃべりしていたり、利用者はノックさえすればどこでも入っていけたりする、「普通」の場だそうです。

大企業のオフィスにある取り澄まして権威的な関係ではないもの。生き馬の目を抜く、暴力と欺きにあふれた空間にはないもの。…友人知人が語り合い、微笑みあう、居心地の良い適度な無関心と親切が混在する「普通」の関係。その場を経験した人の言葉でいえば「生きる感触につながるような雰囲気」なのだそうです。

(医療の場という)一つの意味によって覆い尽くされるのではなく、雑多な意味の混じった場に身をおくからこそ元気になっていくのである。バザーリアの改革は、精神医療の場を雑多な意味の交りあった普通の生活の場にしていくことを志向していた。これは医療化への挑戦と思われる。…イタリアでは「近づいてみれば、誰一人まともな人はいない」という標語の書かれた標識が街中のあちこちにあるのだという…「受苦の連帯」こそは、近代主義に染め上げられた結果、圧倒的なものとして構築された精神医療を根底から変えるために必要なものであろう。(『健康不安と過剰医療の時代――医療化社会の正体を問う』、長崎出版、2012、井上芳保編著、P217-218)

受苦の連帯…それは、ぼくには、屋根の上から声高に叫んだりしないことと、どこか根っこが通じる気がします。「普通の場」を生み出し、維持するには、受苦や人間存在を分かち合う人と人のつながりが必要なのでしょう。意外とそれは難しいことかもしれません。

■1960からバザーリア法制定までを描いたイタリア映画「むかしMattoの町があった」の上映会があるそうです。(青森市上映会、6月22日)http://180matto.jp/

2013年6月1日

バァナキュラーな価値

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:15 PM

キラキラひかる

 

 考えや価値はどこからやってくる?

コピー・アンド・ペースト。自分なんていないの?

マニュアル的な思考方法ではなく、生態学的な考え方に変わるには…

 

 

 ――商品(経済の世界)から独立化したライフスタイルは、それぞれの小さな共同体のなかで新たに形成されねばならず、強制されたものであってはならない。

なによりバァナキュラーな価値(筆者注:vernacular、近代化に囚われない価値)によって生活している共同体では、他の人に与えられるものと言えば自身のモデルの魅力以外には何もないのだ。

(『シャドーワーク――生活のあり方を問う』、イヴァン・イリイチ、1981年、岩波現代選書、玉野井・栗原訳、1982年、p72)

そう。

だから自分を語ることが必要。

得られるものは、誰かのモデルの魅力以外にはないし、与えるのもそれしかない。

「自身のモデルの魅力」…ここのところ ここの解釈 そして実感こそ。

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